伝記
セベロ・オチョア・デ・アルボルノスは、1905年9月24日、スペインのアストゥリアス県ルアルカに生まれた生化学者である。のちにアメリカ合衆国に移り、1959年度のノーベル生理学・医学賞を受賞した。父セベロ・マヌエルは弁護士で、実業家でもあり、母カルメン・デ・アルボルノスは、のちに亡命政府の首相となる政治家アルバロ・デ・アルボルノスの妹だった。父は1912年に亡くなり、母子はマラガに移り住んで、オチョアはそこで高校まで通った。スペインの神経科学者でノーベル賞受賞者のラモン・イ・カハールの著書を読んで、生物学に興味を持った。1923年にマドリード大学の医学部に入学し、カハールの下での研究を希望したが、カハールはすでに退官していた。
教授から、同級生のホセ・マリア・ガルシア・バルデカサスとともに、尿中のクレアチニンを分離する方法に取り組むよう言われ、二人は目的を果たし、筋肉中のクレアチニンの微量を測る方法も開発した。1927年の夏はグラスゴーで過ごし、英語の能力を高めた。帰国して、この研究の論文を書き、アメリカの雑誌に受理されて、生化学研究者としての歩みを始めた。1928年に医学の課程を終え、1929年には、この論文のおかげで、ベルリンのカイザー・ヴィルヘルム研究所のオットー・マイヤーホフの研究室に招かれた。当時の研究所は、生化学の重要な拠点で、ワールブルクやリップマンらと知り合った。1930年にマドリードに戻り、博士論文を提出して医学博士号を取得した。1931年にカルメン・ガルシア・コビアンと結婚したが、子供はいない。このころ、のちに政治家に転じて首相となるフアン・ネグリンの助手に任じられた。
1936年9月、戦争中のスペインを離れて、ドイツに向かった。1937年にイギリスに移り、プリマスの海洋生物学研究所を経て、同年12月からオックスフォードの研究室で働いた。1938年から1941年までオックスフォード大学の助手を務めた。戦争が始まると、アメリカに移住し、1940年からセントルイスのコリ夫妻の研究室に勤めた。1942年にニューヨーク大学医学部の助手になり、1945年に生化学の助教授、1946年に病理学の教授、1954年に生化学の教授となった。1954年には、ポリヌクレオチドホスホリラーゼという酵素を発見した。これはリボ核酸を試験管内で合成できるものだった。1955年に、フランスとロシアの血を引く生化学者マリアンヌ・グランベルグ=マナゴとともに、その酵素の単離を論文で発表した。この発見は、合成ポリヌクレオチドの調製を可能にし、遺伝暗号の解読につながった。
1956年にアメリカの国籍を取得し、スペインの国籍は、独裁の終わりのあとも、回復しなかった。同年、弟子のアーサー・コーンバーグが、DNAも、その酵素によって合成できることを示し、二人は1959年のノーベル賞を共に受けた。ほかに、1956年にウォーレン賞、1963年にパウル・カラー・ゴールドメダル、1979年にアメリカ国家科学賞を受けた。1963年のスペイン生化学会の創設にも、重要な役割を果たした。1985年まで、タンパク質の生合成とRNAウイルスの複製の研究を続け、スペインに帰国して、政府や科学者に助言をした。1993年11月1日、マドリードで死去した。1970年代から計画されていた新しい研究所は、彼の名にちなんで命名され、小惑星にも名が付けられた。
同じ年に亡くなった人物
- Charles Adkins (1993年没)
- グイード・マゼッティ (1993年没)
- エジバウド・マルティンス・ダ・フォンセカ (1993年没)
- クレア・デュ・ブレイ (1993年没)
- ブランドン・リー (1993年没)
同じ地域に関係する人物
- ホアキン・トゥリーナ (1949年没)
- フアナ・デ・ポルトゥガル (1475年没)
- アルフレード・クラウス (1999年没)
- フアナ・デ・アウストリア (1573年没)
- アントニオ・ホセ・カヴァニレス (1804年没)