HISTORICAL PERSON · 1594年没

ジョヴァンニ・ダ・パレストリーナ

ルネサンス後期イタリアの音楽家。ローマ近郊のパレストリーナに生まれ、カトリックの宗教曲を多く残し、「教会音楽の父」とも呼ばれる。

生涯
1594年没
死亡地
イタリア共和国(ローマ県 / ローマ)
出生地
イタリア共和国(パレストリーナ)
出典
世界地図
イタリア共和国(ローマ県)

伝記

ジョヴァンニ・ピエルルイージ・ダ・パレストリーナは、イタリア・ルネサンス後期の音楽家で、1525年頃に生まれ、1594年2月2日に没した。ジョヴァンニ・ピエルルイージが名で、パレストリーナは出生地であり、名は「パレストリーナ出身のジョヴァンニ・ピエルルイージ」という意味である。カトリックの宗教曲を数多く残し、「教会音楽の父」ともいわれる。生まれたのは当時ローマ教皇領にあったローマ近郊の町パレストリーナで、1537年のサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂の聖歌隊員名簿に名前があることから、このときにローマへ出たものと考えられる。

彼は、北ヨーロッパのポリフォニー様式の影響下に置かれた世代に属する。イタリアでこの様式が支配的となったのは、ギヨーム・デュファイとジョスカン・デ・プレの影響力によるところが大きい。1544年から1551年にかけて、郷里で最も大きな大聖堂のオルガン奏者を務め、作品を初めて出版した。この「ミサ曲集」は、当時イタリアで宗教音楽を作曲した作曲家の出身がネーデルラントやフランドル、フランス、イベリア半島で占められる中、イタリア半島出身者が出版した初めてのものとなった。表紙の木版画は、約20歳年上のスペイン出身の作曲家モラーレスのミサ曲集のものをそっくり借りたもので、当時のイタリアの音楽事情を物語る。出版当時のパレストリーナ教区の司教は、のちの教皇ユリウス3世で、この曲集に深い感銘を受け、1550年に教皇となるとサン・ピエトロ大聖堂の合唱隊の楽長に任じた。

ところがパウルス4世の時代(1555年〜1559年)になると状況は変わった。改革を目指す厳格な教皇のもとで、既婚者だったという教義上の理由から、他の同様の音楽家とともに解雇された。その後の15年ほどは、ローマの他の教会で楽長を務め、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂とサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂の名が挙がる。教義上の障害がなくなると、1571年にサン・ピエトロ大聖堂へ呼び戻され、生涯そこを離れなかった。1570年代には身内の不幸が続き、弟、音楽家に育った二人の息子、妻を、1572年、1575年、1580年のペストで失った。失意のなか、僧侶になることも考えたようだが、裕福な毛皮商の未亡人と再婚し、経済的な独立を得て、亡くなるまで生活に困らず作曲を続けた。1577年には教皇からグレゴリオ聖歌の改革を命じられた。

代表作の一つ「教皇マルチェルスのミサ曲」は、6声部の曲で、1565年6月19日にトレント公会議の教父らの前で歌われたと伝えられる。ただし、この曲が公会議にポリフォニーの禁止を思いとどまらせたという有名な話は、史実と異なるとされ、近年の研究では、曲は会議で制限が議論されるより、おそらく10年近く前に書かれたと示されている。作曲の意図は不明である。少なくとも100以上のミサ曲と250以上のモテトなど多くの教会音楽を作曲し、順次進行を主体とした簡素で緻密な合唱様式は「パレストリーナ様式」と呼ばれ、18世紀のフックスの教本以来、厳格対位法の模範とされてきた。ミサ曲『ミサ・シネ・ノミネ』はバッハを魅了し、彼はロ短調ミサ曲の作曲中にこの曲を研究し、実演も行った。19世紀には、ヴィクトル・ユーゴーらがパレストリーナをカトリック音楽全体の父と書き、1903年にはヴァチカンの教令で、彼の作品が宗教音楽の規範とされることが望ましいとされた。1594年、ローマで胸膜炎により亡くなり、その日のうちに簡素なひつぎに納められて埋葬された。

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