伝記
ヴィクトル・ヴァザルリは、1906年4月9日にオーストリア=ハンガリー帝国のペーチ(現ハンガリー領)に生まれた、ハンガリー系フランス人の芸術家である。「オプ・アート」の先駆者とされる。生まれてから2、3年は母の姓を名乗ってチサール・ギョゾといい、母はスロヴァキア出身、父はルーマニアのティミショアラの出身でレストランのボーイ長だった。1908年に一家がブダペストへ移ると父の姓に改め、ヴァシャルヘイ・ギョゾとなった。幼い頃は、父のレストランと、俳優をしていた父方のおばのいる劇場を往復して食事を運ぶ手伝いをよくしたという。
1921年から1925年まで商業高校でフランス語とドイツ語を学び、1922年には私立の絵画学校にも通って、人体のデッサンなど伝統的な技法を身につけた。1925年から製薬会社で経理事務に就き、はじめてデザインの仕事を受けたのもこの会社だった。医学に関心を持ってブダペストの大学で医師免許を目指したが、2年で断念し、美術の道に進んだ。1929年の秋、バウハウス運動の研究の中心地として知られたワークショップ「ムヘイ」に加わった。ムヘイは資金が乏しく、バウハウスの全分野は扱えなかったため、応用グラフィックとタイポグラフィーに力を入れており、ヴァザルリはそこでバウハウスの機能主義に大きな影響を受けた。同じ場所でのちに妻となるクラーラ・シュピンナーと出会った。ボールベアリングの会社で経理と広告ポスターの仕事にも就き、1929年には『青の研究』『緑の研究』を描いている。
1930年、クラーラとともにパリに移った。色彩と光学の研究を深め、グラフィック・デザイナーとして成功するのが目的だった。1935年までアヴァスなどの広告代理店で働き、以後は医療系出版社の広告や装丁を手がけた。ムヘイのような専門学校を設けようとしたが実らず、本業のかたわらで個人の作品を制作し、1930年代の作品にはソ連の構成主義の影響が見られる。1938年ごろの『ゼブラ』は、白と黒の曲線の縞が輪郭線に囲まれず、背景から溶け出すように見える作品で、オプ・アートの最も早い作例のひとつとされる。1939年にはカフェ・ド・フロールで画商ドゥニズ・ルネと出会い、後援を得た。1942年から1944年は南仏ロット県の安宿で暮らし、アンドレ・ブルトンが偶然作品を見て関心を寄せたと知られる。1944年にルネがパリに画廊を開き、ヴァザルリは郊外にアトリエを構えて、色数と形を最小限に抑えた幾何学的抽象を追求していった。
1964年にアメリカの雑誌『タイム』が「オプ・アート」の語を用いて紹介し、翌1965年にニューヨーク近代美術館で「感応するまなざし」展が開かれると、注目を集めた。1970年に南仏ゴルドに500点あまりの個人美術館を開き(1996年に閉鎖)、1976年にはエクサンプロヴァンスにヴァザルリ財団美術館を開設した。自ら設計した建物の開館式にはポンピドゥー大統領も臨席した。1972年にはルノーのロゴも息子と手がけている。1997年3月15日にパリで、前立腺がんにより90歳で亡くなった。次男も父と同じくオプ・アートの作家になった。
同じ年に亡くなった人物
- Rawya Ateya (1997年没)
- バリー・エバンス (1997年没)
- ハリー・グラス (1997年没)
- 横井軍平 (1997年没)
- 杉村春子 (1997年没)
同じ地域に関係する人物
- アンリ2世 (コンデ公) (1646年没)
- クロード・ミレール (2012年没)
- ウジェーヌ=アンリ・グラヴェロット (1939年没)
- アンドレ・ルヴォフ (1994年没)
- アンリ4世 (フランス王) (1610年没)