伝記
アンリ4世は、1553年12月13日、ナバラ領のポーで、ブルボン家のヴァンドーム公アントワーヌと、フランソワ1世の姪であるナバラ女王ジャンヌ・ダルブレの子として生まれた。母は熱心なユグノーで、その影響で父もプロテスタントに帰依しており、父はユグノーの盟主となっていた。1561年、7歳で父に呼び寄せられて宮廷に入ったが、宗派の対立が激化する中で父がカトリックに寝返って改宗し、母は宮廷を去り、幼いアンリは強制的にカトリックに改宗させられた。1562年にユグノー戦争が勃発すると、父はカトリック陣営の司令官として戦い、ルーアン包囲戦で戦死し、幼いアンリがブルボン家の当主となった。
1567年に戦争が再開すると、母によってベアルンへ連れ帰され、ユグノー陣営に加わった。ベアルンでカトリックの反乱が起こると、初めて軍隊の指揮を執って撃退したという。1569年、ジャルナックの戦いで叔父のコンデ公が戦死したため、若くしてユグノーの盟主となり、軍隊の指揮はコリニー提督が執った。1572年6月に母が急死してナバラ王位を継ぎ、同年8月18日に王妹マルグリットと結婚式を挙げた。ところが8月24日、パリに集まっていたコリニーら多くのユグノー貴族がギーズ公アンリ1世の兵に虐殺され、数千人が殺された。アンリは従弟とともに強制的にカトリックに改宗させられ、宮廷に幽閉された。
何度かの脱出の失敗ののち、1576年2月3日の狩猟大会中に逃走に成功し、同年6月にプロテスタントに再改宗してユグノーの盟主となった。1584年にアランソン公の死でナバラ国王アンリは筆頭王位継承権者となり、アンリ3世、カトリック同盟のギーズ公アンリとの三アンリの戦いの様相を呈した。1587年のクートラの戦いではカトリック軍に大勝した。1589年8月にアンリ3世が修道士に刺されて倒れると、死の床で王位を託され、8月2日、35歳でフランス王位を継承してブルボン朝を開いた。しかしカトリック同盟は、破門されていたアンリ4世を認めなかった。
1593年7月、パリがプロテスタントの王を受け入れないと悟り、寵妃に「とんぼ返りを打つことにする」と手紙を送り、同月25日にサン=ドニ大聖堂でカトリックに改宗した。「パリはミサを捧げるに値する」と語ったと伝えられる。これで国民の広い支持を得て、1594年2月にシャルトル大聖堂で戴冠し、3月22日にパリに入った。1598年4月30日にはナントの勅令を発し、カトリックを国家的宗教としつつ、プロテスタントの信仰の自由を認めて宗教戦争の終息を図った。
政治では、側近のシュリー公に国家経済の再建、農業の促進、公共事業などを行わせ、セーヌ川のポンヌフ橋の建造を中心にパリを大規模に再開発した。ポーレット法を定め、税の支払いの見返りに官職の世襲を保証した。また、シャンプランを北アメリカに派遣し、のちのフランス植民地の基礎とした。マルグリットとの結婚は無効とされ、1600年にマリー・ド・メディシスと結婚して6人の子が生まれた。1610年5月14日、馬車に乗ろうとしたところを狂信的なカトリック教徒フランソワ・ラヴァイヤックに刺殺され、サン=ドニ大聖堂に葬られた。「良王アンリ」と呼ばれ、国民に広く愛された。
同じ年に亡くなった人物
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- Duchess Sophie of Prussia (1610年没)
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