伝記
アンドレ・ミシェル・ルヴォフは、フランスの微生物学者である。1902年5月8日、中部オーヴェルニュ地方アリエ県のアネー=ル=シャトーに生まれた。父のサロモンはセーヌ県の精神病院に勤める精神科医で、アネー=ル=シャトーの家庭療養施設の責任者でもあった。母のマリア・ヤコヴレヴナ・シモノヴィッチは画家であり彫刻家でもあった。両親はいずれもロシア系のユダヤ人で、いまのウクライナにあたるポルタヴァ県の出身であった。
パリのリセ・ヴォルテールで中等教育を受けたのち、パリ大学の薬学部や医学部、ソルボンヌで学んだ。研究への関心が強く、1921年、19歳のころにパスツール研究所に入った。ここでエドゥアール・シャトンに師事し、1938年まで夏の間はロスコフやバニュルスの臨海実験所で共同研究を行った。翌1922年にはシャトンの紹介で、フェリックス・メニルが率いる同研究所の植民地研究室に入り、繊毛虫の研究に取り組んでいる。1925年12月5日には同じ科学者のマルグリット・ブルダレと結婚した。夫妻はパスツール研究所でも同僚として、同じ対象の研究にしばしば一緒に取り組んだ。
1927年に医学博士となり、1929年には研究所の研究室長に就いた。1932年には理学博士の学位を得ている。ロックフェラー財団の援助を受け、マルグリットとともに、ハイデルベルクのオットー・マイヤーホフの研究室で研究した。この時期には鞭毛の進化も研究している。のちに英国のケンブリッジのデイヴィッド・ケイリンの研究室でも学んだが、その年は1936年とも1937年ともいわれる。1938年にはパスツール研究所の屋根裏に微生物生理学の部門が置かれ、その長に任命された。バクテリオファージとポリオウイルスを用いた研究で、画期的な成果を挙げたとされる。
第二次世界大戦では1年間動員された。ロックフェラー財団のルイ・ラプキンから米国への亡命を勧められたが、夫妻は断り、ジャン・カヴァイエスらが率いる地下抵抗組織に加わった。英国の情報機関と結ぶ組織にも参加している。1954年に米国で動物ウイルスの研究法を学び、帰国後はフランスに基礎ウイルス学の学派を築いた。1962年には新しいウイルスの分類法を提案し、これは国際ウイルス分類委員会に採用された。夫妻は、ウイルス感染の治癒における発熱の役割も研究している。
1965年、教え子のフランソワ・ジャコブ、ジャック・モノーとともに、ノーベル生理学・医学賞を受けた。酵素とウイルスの合成の遺伝的制御に関する研究が評価されたもので、一部のウイルス、正確にはプロウイルスが細菌に感染する仕組みの発見に基づくとされる。それ以前にも、1960年にレーウェンフック・メダルを、1964年にロンドン生化学協会のケイリンメダルとシャルル=レオポール・メイエ賞を受けている。1968年にパスツール研究所を離れてがん研究所の所長となり、1972年に退職した。
1970年にはフランス家族計画運動の会長に選ばれ、1973年4月に辞任した。死刑廃止の立場を強く持ち、死刑が争点となった裁判では、弁護側の証人として法廷に立った。母と同じく絵筆も執った。1982年にレジオン・ドヌール勲章の大十字章を受け、1994年9月30日にパリで亡くなった。
同じ年に亡くなった人物
- エーリヒ・ブッシェンハーゲン (1994年没)
- サム・フランシス (1994年没)
- ジョルジュ・シフラ (1994年没)
- パトリック・オニール (1994年没)
- ハリー・サルツマン (1994年没)
同じ地域に関係する人物
- ジャン=ジャック・エンネル (1905年没)
- アルベール・ベナール (1934年没)
- アシル・リシャール (1852年没)
- ユーリイ・アンネンコフ (1974年没)
- ピエール・ルイス (1925年没)