伝記
ヴェロニカ・ゲリンは、犯罪組織と戦って殺害されたアイルランドのジャーナリストである。7月5日にダブリンで生まれた。生年は1958年とも1959年ともいわれる。クリストファーとバーナデットの娘で、四人のきょうだいとともにダブリンのアルタンで育ち、愛称は「ロニー」だった。通った中等学校では陸上競技で頭角を現し、バスケットボールやカモギーにも親しんだ。15歳のときには椎間板を傷めたまま全アイルランドのサッカー決勝に出場したという。のちにアイルランド女子のバスケットボールとサッカーの両方の代表にも選ばれ、1981年5月にはダリーマウント・パークでのイングランド戦に出場している。
ダブリンのトリニティ・カレッジで会計学を学び、卒業後は父の会社で働いた。その父が三年後に亡くなったため、1983年に広報会社を興し、7年間経営した。1983年から翌年にかけては、フィアナ・フォイル党の新アイルランド・フォーラムでの書記を務め、党首チャールズ・ホーヒーの個人秘書も務めて、家族とも親しくなった。1987年にはダブリン北選挙区でショーン・ホーヒーの選挙代理人兼会計責任者となった。1985年にグレアム・ターリーと結婚し、1989年に息子カハルが生まれている。マンチェスター・ユナイテッドの熱心なファンでもあった。
1990年に職を変えて新聞記者となり、日曜紙の「サンデー・ビジネス・ポスト」と「サンデー・トリビューン」で働いた。直接の情報源に当たることを重んじ、身の安全にはあまりこだわらずに取材相手のもとへ向かう記者だった。そのため、警察と犯罪者の双方と近しい関係を築き、どちらもその熱心さに応えて詳しい情報を提供したとされる。1994年からは「サンデー・インディペンデント」紙で犯罪者について書くようになった。会計学の知識で違法な資金の流れをたどり、名誉毀損法に触れないよう、裏社会の人物は通り名や仮名で記した。
麻薬組織を扱うようになると、脅迫が相次いだ。1994年10月には、暗殺された犯罪組織の大物マーティン・ケイヒルについての記事が出た後、自宅に2発の銃弾が撃ち込まれたが、ゲリンはこれを意に介さなかった。1995年1月30日には、ジェリー・ハッチについての記事を書いた翌日、玄関の呼び鈴に応じたところ、男に拳銃を頭に向けられ、足を撃たれた。それでも取材を続けると宣言した。同年9月13日には、収入の源がないのに豪奢に暮らしていることを問いただした相手、犯罪者のジョン・ギリガンに襲われた。ギリガンはその後、電話で息子の誘拐や彼女の殺害をほのめかして脅した。同年12月には、ジャーナリスト保護委員会から国際報道の自由賞を受けている。
ギリガンは暴行の罪で起訴されたが、1996年6月26日、ダブリン郊外の交差点で信号待ちをしていたゲリンは、組織の者により至近距離から6発の弾丸を撃たれて亡くなった。この事件は国中に衝撃を与え、麻薬撲滅の機運が高まった。議会は憲法を改正し、大規模な捜査が行われて150人以上が逮捕され、組織の資産も没収された。別件でイギリスに拘束されていたギリガンは、2000年2月3日にアイルランドへ送還された。ゲリンを描いた映画に、ジョアン・アレン主演の作品(2000年)と、ケイト・ブランシェット主演の『ヴェロニカ・ゲリン』(2003年)がある。
同じ年に亡くなった人物
- マリア・クリスティーナ・デ・ボルボン・イ・バッテンベルグ (1996年没)
- Audrey Patterson (1996年没)
- ジョージ・バーンズ (1996年没)
- ポール・ランド (1996年没)
- オーレ・オーフルンド (1996年没)
同じ地域に関係する人物
- キルデアのブリギッド (525年没)