伝記
マルクス・カッシアニウス・ラティニウス・ポストゥムスは、三世紀のローマ帝国の軍人で、ガリア帝国の初代皇帝となった人物である。軍人皇帝時代の僭称皇帝の一人で、没年は269年とされる。「ポストゥムス」は「最後の息子」や「父の死後に生まれた息子」を意味するラテン語の添え名である。
前半生はほとんど分かっていない。身分の低いガリア人とみる説と、バタウィ人の出身とみる説があり、後者の根拠は、彼の貨幣がバタウィ人に親しまれたとみられるヘラクレス・マグサヌスなどの神々をたたえていることである。軍で昇進し、ゲルマニアの総督にまで至ったと推測され、ウァレリアヌス帝からゲルマニア・インフェリオルの総督に任じられたのかもしれない。名誉執政官の地位を与えられたともいわれ、宮廷の覚えもよかったらしい。259年ごろ、ウァレリアヌスが東方でペルシアと戦い、その子で共同皇帝のガッリエヌスがドナウ辺境の問題に追われるなか、ガッリエヌスは息子サロニヌスとポストゥムスを含む軍指揮官たちをライン川の守りに残した。
アレマンニ族とフランク人の侵入による混乱と、ウァレリアヌスが敗れて捕らえられたとの知らせのなか、ガリアの軍が反乱を起こして彼を皇帝に推した。きっかけは、イタリアから捕虜を連れて戻るユトゥンギ族の軍を、ポストゥムスらの指揮のもとで撃破したことだった。ポストゥムスが戦利品を兵に分け与えると、サロニヌスは側近の近衛隊長シルワヌスの助言で、それを自分の居所のコロニア・アグリッピナ(現ケルン)へ渡すよう求めた。ポストゥムスは渋々従うふりをして軍を集め、兵が皇帝への忠誠を捨てるよう仕向けたとされる。兵は彼を皇帝と宣言して都市を包囲し、城壁を破ってシルワヌスとサロニヌスを殺させた。彼は後に、この勝利を記念する凱旋門を建てた。この殺害は、後に支持者によって現地のガリア人の仕業だったとも主張された。
260年に皇帝号を称したとされ、その年は夏か秋の可能性が高いという。支配圏はガリア、ヒスパニア、ゲルマニア、ブリタンニアにおよび、後世「ガリア帝国」と呼ばれる。統治の開始は259年とされることも多いが、260年を開始とするなら、ガリア帝国に関わる出来事の年はみな一年ずつ繰り下げられる。首都はコロニア・アグリッピナ、あるいはトリーアとされ、独自の元老院、執政官、親衛隊を置き、ローマの制度を整えた。貨幣には自らを「ガリアの復興者」と称した。ゲルマン人からガリアを守ったのちには、「ゲルマニクス・マクシムス」の称号も得た。彼はライン国境の回復と防衛に力を注ぎ、古代の著述家からも称賛された。発行した貨幣は、ガッリエヌスのものより細工も金属の質もよかった。その背景には、ヒスパニアとブリタンニアの鉱山地帯の掌握があったと考えられている。
263年にガッリエヌスが討伐に出て、緒戦では勝ったが深手を負って引き返し、その後ポストゥムスを再び攻めなかった。ミラノを押さえていたアウレオルスはポストゥムス側につき、ガッリエヌスの軍に包囲されたが、ポストゥムスは何らかの理由で彼を支えきれなかった。269年、配下のラエリアヌスがモゴンティアクム(現マインツ)で皇帝を名乗った。ポストゥムスはこれを倒したが、兵に同市の略奪を許さなかったため不満が高まり、兵に殺された。彼の死でブリタンニアとヒスパニアは失われ、領土を縮めたガリア帝国はマルクス・アウレリウス・マリウスに引き継がれた。
同じ年に亡くなった人物
- ウルピウス・コルネリウス・ラエリアヌス (269年没)
- マルクス・アウレリウス・マリウス (269年没)
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