伝記
ウルピウス・コルネリウス・ラエリアヌスは、三世紀後半のガリア帝国の軍人で、初代皇帝ポストゥムスに対して反乱を起こした僭称者である。生年は分からず、269年に没した。ラテン語の史書『ヒストリア・アウグスタ』では誤ってロリアヌスと呼ばれ、アウレリウス・ウィクトルの著作ではアエリアヌスと呼ばれている。完全な名が確認できるのは、彼が発行した初期の貨幣の一つだけだとされる。
反乱を起こすまでの経歴はほとんど分かっていない。出自も不明だが、トラヤヌス帝を輩出したヒスパニア系の名門ウルピウス家と同じ氏族名を持つことから、その一族につながる人物だった可能性が指摘されている。彼の発行した金貨には、傍らにウサギを伴って横たわるヒスパニアの擬人像が刻まれており、これがヒスパニア出身説の根拠の一つとされる。反乱の時点での地位については、上ゲルマニア属州の総督か、第22軍団プリミゲニアの司令官であったと考えられている。モグンティアクム(現在のマインツ)を拠点に、そこの第22軍団と、アルゲントラトゥムの第8アウグスタ軍団という二つの軍団を率いていたとみられ、ポストゥムスにとって強い脅威となった。
269年の2月か3月に、モグンティアクムで自ら皇帝を称した。ゲルマン人の侵入を撃退した後のことだったともいわれる。反乱の原因については研究者の間で議論が続いており、ライン国境の軍の疲れや、ポストゥムスが直面していた政治的・軍事的な困難が背景にあったと考えられている。支配はモグンティアクムを中心に、コロニア・アグリッピネンシス(現在のケルン)にも及んだようで、ポストゥムスの第二の造幣所を奪って自らの都に移したとされるが、アウグスタ・トレウェロルム(現在のトリーア)の攻略には失敗したとみられる。
ポストゥムスの軍に包囲されたモグンティアクムで、頑強に抵抗した。しかし、269年6月の初めごろ、自軍の兵士に殺されたとされる。一方で、都の陥落後にポストゥムス側の軍に討たれたとする説明もあり、最期については伝承が食い違っている。反乱が続いた期間は、貨幣の発行量から見て、2月末から6月初めまでのおよそ90日、少なくとも2、3か月と推定される。その後しばらくして、ポストゥムスも都の略奪を許さなかったために兵士に殺されたと伝えられ、後継にはマリウスが立った。ラエリアヌスは、ロリアヌスの名で『ヒストリア・アウグスタ』の三十人僭主の一人に数えられている。
同じ年に亡くなった人物
- マルクス・アウレリウス・マリウス (269年没)
- マルクス・カッシアニウス・ラティニウス・ポストゥムス (269年没)
同じ地域に関係する人物
- テオドール・ワイセンベルガー (1950年没)
- マクシミリアン・ツー・ヴィート=ノイヴィート (1867年没)
- ルドルフ・ディールス (1957年没)
- エドゥアルト・フォルトゥナート (バーデン=バーデン辺境伯) (1600年没)
- ループレヒト (プファルツ=フェルデンツ公) (1544年没)