伝記
フリードリヒ2世は、シュタウフェン家のシュヴァーベン大公(在位1105年から1147年)で、「独眼公」と呼ばれた人物である。1090年に生まれ、シュヴァーベン公フリードリヒ1世と、皇帝ハインリヒ4世の娘アグネスの息子として生まれた。弟のコンラート3世は、1138年にシュタウフェン家で初めてローマ王に選ばれた。後に皇帝となるフリードリヒ1世の父でもある。
1105年に父が没すると、15歳でシュヴァーベン公位を継いだ。弟のコンラートとともにシュタウフェン家の領土を築き、コンラートは旧フランケン公領に領地を得て、フリードリヒはミッテルライン地方とアルザスを中心に多くの城を築いた。1108年には、叔父であるローマ王ハインリヒ5世のハンガリー王カールマーンに対する遠征に従った。1110年か1111年には、教皇パスカリス2世との会見のためローマへ向かう皇帝に随行した。1115年ごろには、モーダー川の中州に城を築き、その周りにハーゲナウの町ができた。ドイツで反皇帝の動きが起こっても皇帝に忠実に仕え、1116年に皇帝がイタリア遠征を行う間は、コンラートとともに摂政をつとめた。これによりシュタウフェン家はラインフランケン地方に領地を得た。1120年にバイエルン公ハインリヒ9世の娘ユーディトと結婚し、1122年に長男フリードリヒが生まれた。
1125年にハインリヒ5世が没し、ザーリアー朝の男系が絶えると、後継者を決める会議がマインツで開かれ、フリードリヒも候補の一人となった。ハインリヒ5世がフリードリヒを後継者と考えていたのか、次の王が決まるまで帝国の秩序を保つ役を期待していたのかは、見方が分かれている。会議は混乱したが、ザクセン公ロタール3世が選ばれた。フリードリヒは決定を受け入れたものの、忠誠の誓いは拒んだ。まもなく、兄弟が母アグネスを通じて相続したザーリアー家の遺領のうち、王領にあたるものを返還するかどうかが争いになった。同年11月、レーゲンスブルクの法廷でロタールは返還を求めたが、兄弟が応じなかったため、12月に帝国アハト刑を宣告した。1126年1月のゴスラーの会議で討伐の軍が決まり、王と諸侯の軍は上ロートリンゲン、ラインフランケン、アルザスの大部分を占領した。1127年のニュルンベルク包囲は失敗し、この一連の戦いで、フリードリヒは片目を失明し、以後は王位候補からはずれたとみられている。
1127年12月、聖地から戻った弟コンラートが対立王に立てられ、フリードリヒは軍事面の主導権を握り続けて、1128年にシュパイアーを得た。しかし1130年にロタールが取り戻し、ほどなくユーディトも亡くなった。1131年にはアルザスを完全に失い、シュヴァーベンと東フランケンだけが残った。1132年、フリードリヒはアグネス・フォン・ザールブリュッケンと再婚した。1134年にロタールがイタリアから戻ると、北からロタール、南からバイエルン公ハインリヒ傲岸公の攻撃を受けて劣勢となり、1135年の春、バンベルクで降伏した。コンラートも王位を放棄した。
1147年4月4日(6日とも)、アルツァイで没し、自らが創建したアルザスのザンクト・ヴァルブルガ修道院に、妃アグネスとともに葬られたが、2人の墓は現存しない。異父弟のフライジング司教オットーは年代記に、フリードリヒは主君に忠実な騎士であり、叔父にとって役に立つ友であったと記した。長男フリードリヒがシュヴァーベン公位を継ぎ、1152年にドイツ王に選ばれた。
同じ年に亡くなった人物
- カブル・カン (1147年)
- イブラーヒーム・イブン・ターシュフィーン (1147年没)
- イーゴリ2世 (1147年没)
- イスハーク・イブン・アリー (1147年没)
- ロバート (初代グロスター伯) (1147年没)
同じ地域に関係する人物
- ルートヴィヒ4世 (プファルツ選帝侯) (1449年没)
- フラウエンロープ (1318年没)
- アドリアン・ファン・ルーメン (1615年没)
- ヨハン2世 (プファルツ=ジンメルン公) (1557年没)
- ゲオルク・ヴィルヘルム (プファルツ=ツヴァイブリュッケン=ビルケンフェルト公) (1669年没)