伝記
マクシミリアン2世は、1527年7月31日にウィーンで生まれた。ハプスブルク家のフェルディナント1世と、ヤゲウォ家出身の皇后アンナの子で、次子にして長男であった。曽祖父の皇帝マクシミリアン1世にちなんで名づけられ、伯父は皇帝カール5世である。幼い頃は父の宮廷があるインスブルックで過ごし、教育は主にイタリアで受けた。教師にはカスパル・ウルジヌス・ヴェリウスやゲオルク・タンシュテッターといった人文主義者がいたという。早くからルター派の教えにも触れ、プロテスタントの諸侯であるザクセンのアウグストと文通していた。語学が堪能で、自然科学にも造詣が深かったとされる。
17歳の頃から、1544年のフランス王フランソワ1世に対する伯父カール5世の遠征や、シュマルカルデン戦争で戦の経験を積んだ。1547年のミュールベルクの戦いでカール5世が勝つと、シュマルカルデン同盟の指導者であるザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒ1世とヘッセン方伯フィリップ1世のために口添えをし、まもなく帝国の政務にも加わり始めた。宗教改革の争いではルター派に共感を抱いていたが、父が廃嫡を仄めかしてそれを禁じたため、カトリックに留まり、プロテスタント派の諸侯を失望させた。
1548年9月、皇帝カール5世の娘で従妹に当たるマリアとバリャドリッドで結婚した。伯父にはスペイン系ハプスブルク家との結びつきを強め、甥の信仰をカトリックに固める狙いがあったという。夫妻の間には16人の子が生まれ、のちに神聖ローマ皇帝となるルドルフ2世とマティアスもそこに含まれる。マクシミリアンは一時、皇帝の代理としてスペインで暮らしたが、その生活はプロテスタント的な傾向のある彼には合わなかった。1550年12月にドイツへ戻り、皇位継承をめぐる協議に加わった。のちにカール5世が息子のフェリペ2世に帝位を継がせようとした際には、父フェルディナントと共に反対し、両家の関係は乱れた。1552年に患った病は、従兄フェリペ2世の利益のために盛られた毒のせいだと見られた。
1562年にボヘミア王、1563年にハンガリー王となり、1564年に父の跡を継いで神聖ローマ皇帝に即位した。皇帝となった後は、プロテスタント派に宗教の自由を認め、同時にカトリックの改革を試みたが、スペインの反対で失敗した。ハンガリーではオスマン帝国の駆逐に失敗し、スルタンに保護金を払い続けた。1570年には軍の実権を握ろうとしたが、警戒するプロテスタント諸侯の反対で果たせなかった。同年、ハンガリーの対立王ヤーノシュ・ジグモンドが王位請求を放棄してその王位を認め、代わりにトランシルヴァニア公とされた。1573年には一旦ポーランド国王に選出されたが、実効支配はできず、王位はフランスのアンリ3世に奪われた。
1576年10月12日に没した。「余の司祭は天におわす」と述べ、臨終の秘蹟を拒んだと伝えられる。カトリックに留まりながらプロテスタントにも理解を示し、平和を保ち続けた皇帝であり、現代の歴史家には、コスモポリタンで、人文主義、エラスムス主義キリスト教の代表者と評されている。
同じ年に亡くなった人物
- イザベッラ・デ・メディチ (1576年没)
- バルトロメ・カランサ (1576年)
- ヨハン・アルブレヒト1世 (メクレンブルク公) (1576年没)
- Aqa Mirak (1576年没)
- Balint Bakfark (1576年)
同じ地域に関係する人物
- フランツ・フォン・パウラ・シュランク (1835年没)
- ヘルマン・オーベルト (1989年没)
- ハンス・ヨースト (1978年没)
- ゾフィー・フォン・ザクセン (1845-1867) (1867年没)
- フランツ・クサーヴァー・シュヴァルツ (1947年没)