伝記
ジェロラモ・カルダーノは、1501年、ミラノ公国のパヴィアで生まれた。父ファツィオはレオナルド・ダ・ヴィンチの友人で、数学の才に恵まれた弁護士であり、彼はその庶子であった。自伝には、母キアラが妊娠を中絶しようとして果たせなかったと記されている。母は伝染病で三人の子を失っており、それを逃れるため、出産の少し前にミラノからパヴィアへ移っていた。幼少期は病気がちで、父の厳しい養育を受けたという。
1520年にパヴィア大学へ入学した。父は法律を学ばせたがったが、本人は哲学や科学に心を引かれた。イタリア戦争のため1524年に大学が閉鎖されると、パドヴァ大学へ移って学び、1525年に医学の博士号を得た。しかし、他人とうち解けない気性と好戦的な振る舞い、そして庶子であることが災いし、ミラノの医師会には繰り返し申請しても入会を認められず、卒業後も長く仕事に就けなかった。やむなくピオーヴェ・ディ・サッコの町で免許なしに開業し、1531年にルチア・バンデリーニと結婚した。三人の子をもうけ、のちに自らこの時期を生涯で最も幸福な日々だったと書いている。
やがて貴族の助力でミラノの数学教師の職を得て、医師の免許も受けた。医療と数学を並行して続け、有力者を診るうちにミラノで最も頼られる医師の一人となり、1536年には教職を退いた。デンマークやフランスの王、スコットランドの女王からの招きを断ったと自ら記している。1541年にはミラノの医学校の学長を務め、皇帝カール5世と出会った。1543年にはパヴィア大学の医学教授に任ぜられ、裁判所で意見を尊重されるほどの名声を得た。腸チフスの臨床記録、アレルギー症の発見、ヒ素中毒の研究、痛風や発熱性疾患の治療法の確立などが業績に挙げられる。また、磁気現象と電気現象の区別、自在継手(カルダンジョイント)やオートキー暗号の考案、1550年のカルダングリルの発表など、発明家としての面もあった。
1545年に著した『偉大なる術』では、三次方程式の解の公式と四次方程式の解法を示した。三次方程式の解の一つの場合は1539年にタルタリアから詩の形で伝えられたもので、タルタリアは、公表しないと誓ったはずだと主張し、以後十年に及ぶ論争となった。ただし、デル・フェッロの解のほうが先行していたとされ、カルダーノは出典を明示して公表した。四次方程式の解は弟子のルドヴィコ・フェラーリによるものである。この本でカルダーノは、負の数を欧州で初めて系統的に用いた。「足して10、掛けて40になる二つの数」という問いには、5+√-15と5-√-15を解の候補に挙げ、掛け合わせると40になることを確かめたが、極端に微妙で役に立たないと述べ、解と認めることには躊躇した。虚数の概念を世界で初めて登場させたのはこの人物とされるが、その性質は理解していなかった。数学の知識が師から弟子へ口伝される秘術だった時代に、解法を公表した点も重要とされる。
金遣いが荒く、自身を賭博者やチェスの指し手と考えていたようだが、1560年代には『さいころあそびについて』を著し、確率論に系統的に触れた。この本は死後の1663年に刊行された。占星術にも凝り、キリストの運勢を占ったことで投獄されたこともある。占星術で自らの死期を予言したが、予言は外れ、その当日に自殺したと伝えられる。自伝『わが人生について』は1576年に出され、同年、ローマで没した。
同じ年に亡くなった人物
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