伝記
ジャン=ミシェル・バスキアは、1960年12月22日にニューヨーク市ブルックリンで生まれ、1988年8月12日に没したアメリカ合衆国の画家である。ハイチ系アメリカ人で、グラフィティ・アートをモチーフにした作品で知られる。フランス語の名前なので、姓の語尾のtは本来は発音されない。
プエルトリコ系移民の母マティルデ・アンドラデスと、ハイチ系移民の父ジェラール・バスキアの三人の子の長子として生まれ、リザーヌとジャニーヌという二人の妹がいた。父は経済的に恵まれたハイチ人の会計士で、母は評価の高いプエルトリコ人のグラフィック・デザイナーだった。両親の離婚などで家庭は安定せず、何度も学校を変えた。母に連れられてニューヨーク近代美術館へ行き、ピカソの『ゲルニカ』をよく見ていた。幼い頃から絵を描き、母は芸術的な活動を奨励した。私立のカトリック系の学校、公立の学校を経て、16歳のときに、才能ある青少年のための学校に入ったが、反抗的な態度で、卒業の1年前に退学になった。
1977年、17歳の頃に、友人のアル・ディアスとともに、地下鉄やスラム街の壁などにスプレーでペインティングを始めた。二人が共有した別人格の筆名は「サモ」といい、この名で謎めいたメッセージを書き残した。翌年、高校を中退して家を出て、2年間を路上や廃ビル、友人宅で過ごし、Tシャツやポストカードを売って生計を立てた。アンディ・ウォーホルは、このとき売っていたポストカードを1ドルで買ったという。サモの路上の書き込みを取り上げた新聞記事が、美術界が彼に関心を持ち始めた最初のしるしとなった。1979年にはソーホーの壁に「サモは死んだ」と書き、グラフィティをやめて、クラリネットとシンセサイザーを担当する音楽グループ「グレイ」を結成したが、この音楽活動はまもなくやめた。グループの名は、交通事故のときに母が病室に持ち込んだ解剖書に由来し、この本は骨や骸骨を描く作風にも影響している。
徐々にスプレーペインティングは評価されて、キース・ヘリングやバーバラ・クルーガーの助力でニューヨークで個展を開くようになった。絵の中に描かれる王冠は、トレードマークとなった。1983年にウォーホルと知り合い、作品を共同制作するようになった。初対面のバスキアへのウォーホルの印象はあまり良くなく、交友を深めるまでは怖がっていたと語っている。1985年の秋に開催された二人の共同展覧会は、批評家の反応がよくなく、これをきっかけに関係は破綻した。1987年のウォーホルの死まで、互いに刺激しあう関係は続いたが、バスキアは次第にヘロインなどの薬物に依存するようになり、ウォーホルの死によってさらに孤独を深めた。
1988年にはパリとニューヨークで展覧会が開かれ、4月には依存から抜け出そうと、ハワイの家に滞在した。6月にニューヨークへ戻り、依存を断ったと告げたが、8月12日、ヘロインの過剰摂取により27歳で亡くなった。ブルックリンのグリーンウッド墓地に埋葬されている。短いが濃密なキャリアで、40以上の個展を開き、約100の合同展に参加した。生涯は、ジュリアン・シュナーベル監督、ジェフリー・ライト主演で1996年に映画化され、死後もその生涯と作品は注目を浴びている。
同じ年に亡くなった人物
- エンツォ・フェラーリ (1988年没)
- ボニータ・グランヴィル (1988年没)
- レイモンド・カーヴァー (1988年没)
- Janos Nemeth (1988年没)
- クルト・ゲオルク・キージンガー (1988年没)
同じ地域に関係する人物
- エミリー・ハーン (1997年没)
- ジョージ・ストーンマン (1894年没)
- アイザック・イズラエル・ヘイズ (1881年没)
- ジェームス・J・コーベット (1933年没)
- サミュエル・モールス (1872年没)