HISTORICAL PERSON · 234年没

諸葛亮

荊州で晴耕雨読の日々を送った蜀漢の丞相で軍師。三顧の礼で劉備に迎えられて天下三分の計を示し、孫権のもとへ赴いて曹操との交戦と同盟を説いた。劉備の創業を助け劉禅を補佐し、武侯祠に祀られる。

生涯
234年没
死亡地
中華人民共和国(陝西省 / 岐山県)
出生地
中華人民共和国(沂南県)
出典
世界地図
中華人民共和国(陝西省)

伝記

諸葛亮は、181年に生まれ、234年8月末に没した、後漢末期から三国時代の蜀漢の政治家・武将で、軍師として知られる。字は孔明で、伏龍、臥龍とも呼ばれた。蜀漢の建国者劉備の創業を助け、その子劉禅の丞相としてよく補佐した。徐州琅邪郡陽都県、現在の山東省臨沂市沂南県の出身で、前漢元帝の時の司隷校尉諸葛豊の子孫にあたる。父の諸葛珪は泰山郡の丞を務めたが、亮が幼い時に世を去った。兄に呉に仕えた諸葛瑾、弟に蜀漢に仕えた諸葛均がいる。まだ幼い頃、弟とともに叔父の諸葛玄に連れられて南方へ移った。この叔父は豫章太守に任じられたが、朝廷から別の太守が送られて居場所を失い、劉表を頼ったとも、197年に民衆の反乱で殺されたとも、史料によって伝わり方が異なる。

その後、荊州で弟と晴耕雨読の生活に入り、好んで『梁父吟』を歌った。自らを管仲や楽毅になぞらえたが、当時それを認める者はほとんどなく、親友の崔州平や徐庶だけが認めたという。この頃、地元の名士黄承彦の娘を娶った。黄承彦が「娘は色が黒くて醜いが、才能は君に娶わせるに足る」と言い、亮が受け入れたと『襄陽記』に見え、周囲は「孔明の嫁選びを真似てはいけない」と囃したという。207年冬から208年春にかけて、徐庶から話を聞いた劉備が3度その家を訪れて迎えたのが「三顧の礼」である。亮は「天下三分の計」を示し、曹操と孫権に当たるのを避け、まず荊州と益州を領有してから天下を争うべきだと勧めた。劉備はその見識を認めて起用し、これを「孔明の出廬」という。

建安13年(208年)、曹操が南下して劉琮が降伏すると、劉備は夏口へ逃れた。亮は孫権に救援を求めるよう進言し、魯粛とともに孫権のもとへ赴いて同盟を説き、曹操軍が必ず敗れると分析して、水軍三万を派遣させた。連合軍は長江流域で曹操軍と戦って勝利した(赤壁の戦い)。戦後は荊州南部の3郡の統治にあたり、税収を軍事に充てた。211年に劉備が益州を攻めると、張飛や趙雲らと長江を遡って郡県を平定し、成都の包囲に加わった。214年に益州が平定されると軍師将軍となり、劉備の外征中は常に成都を守って兵站を支えた。法正、劉巴、李厳、伊籍とともに蜀の法律である蜀科も制定した。

220年に曹丕が魏を建てると、劉備は翌年皇帝に即位して蜀漢を建て、亮は丞相・録尚書事となった。劉備は関羽の弔い合戦を兼ねて呉へ進軍したが、陸遜の作戦で大敗し(夷陵の戦い)、天下三分の計は頓挫した。223年、白帝城で病が重くなった劉備は、亮に「そなたの才能は曹丕の10倍ある」と述べ、劉禅が補佐するに足りなければ、迷わず国を治めるよう託した。亮は涙を流して股肱の臣としての忠誠を誓った。

劉禅が即位すると、政治の全権を担い、農業生産を開発し、鄧芝を派遣して孫権との友好を整えた。225年に益州南部四郡を平定し、異民族に初めて税を課して蜀の財政を潤した。この時に七縦七擒の故事があったともいわれる。227年、北伐を決行し、上奏した『出師表』は名文として名高い。この年、待望の実子諸葛瞻が生まれた。228年春、漢中から魏へ侵攻し、南安、天水、安定の3郡が蜀に寝返って魏の朝廷を恐慌させた。234年に没した。成都や南陽には、彼を祀る武侯祠が今も残る。

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