伝記
ルドルフ・ヴァルター・リヒャルト・ヘスは、1894年4月26日に生まれ、1987年8月17日に没したナチス・ドイツの政治家である。国家社会主義ドイツ労働者党の副総統を務め、ヒトラー内閣の無任所大臣でもあった。陸軍の最終階級は予備役少尉で、親衛隊では、名誉指導者として最初に大将の階級を得た。
エジプトのアレクサンドリアで、ドイツ人貿易商の息子として生まれた。母はスイスの豪商の娘である。居間には皇帝ヴィルヘルム2世の肖像画が飾られ、皇帝の誕生日を本国と同様に祝う、典型的なドイツ人家庭だった。権威的で厳格な父に支配された家庭で、神秘主義に惹かれやすい内向的な性格に育った。1908年にドイツ本国のライン地方にある寄宿制ギムナジウムに送られたが、学友からは「エジプト人」と呼ばれて馬鹿にされたという。父の希望でスイスの商業学校に入り、ハンブルクで年季奉公をした。家業を継ぐための修行だった。
1914年8月に第一次世界大戦が始まると、父の反対を押し切って従軍を志願した。父に逆らったのはこれが初めてである。西部戦線のイーペルの戦いなどに動員され、1915年に二級鉄十字章を授与された。1916年のヴェルダンの戦いでは榴弾の破片で重傷を負い、1917年にはルーマニア戦線で肺に銃弾を受けて、長期入院した。1918年春に、志願していた航空隊への移籍が認められ、戦闘機のパイロットになったが、初出撃の数日後に大戦が終わり、一機も撃ち落とさなかった。エジプトの父の会社は、イギリスによって敵性外国人の財産として没収されていた。
1919年にミュンヘン大学に入り、国粋主義団体のトゥーレ協会に参加した。同年5月には義勇軍に加わって、約5か月間、将校として勤務した。大学では経済学、歴史、政治学、地政学を学び、地政学の父と呼ばれるカール・ハウスホーファー教授に深く心酔した。ハウスホーファーは、ドイツ民族には「生存圏」が不足しており、これは東方にしか見出せないと唱えており、ヘスはこの構想に強く惹かれた。もとはユダヤ人と関わりがなく、反ユダヤ主義者でもなかったが、敗戦によるドイツの混乱があまりに酷かったため、敗戦の責任をユダヤ人に被せる言論に惹かれて、反ユダヤ主義者になったという。1920年5月にヒトラーの演説を初めて聞いて共感し、7月1日に、ナチ党の創立メンバー(党員番号16)として入党した。1923年11月のミュンヘン一揆ではヒトラーに同道し、人質の監視にあたった。一揆が失敗すると、いったんオーストリアに逃れたが、ミュンヘンに戻って自首し、18か月の刑を言い渡されて、ヒトラーと同じランツベルク刑務所に投獄された。
獄中ではヒトラーと非常に親密になり、『わが闘争』の口述筆記を務めた。ただの筆記者ではなく、述作の助言者でもあり、「生存圏」や「歴史におけるイギリスの役割」の項目は、ヘスの影響が大きい。出獄後はヒトラーの個人秘書となり、スケジュールの管理や、苦情の受付を担当した。1927年12月20日にイルゼ・プレールと結婚した。1933年4月21日にナチ党の副総統に任命され、同年12月1日にヒトラー内閣に無任所大臣として入閣した。しかし、ほかの幹部のような実力基盤はなく、実権はすべてヒトラーから発せられていた。1934年6月の突撃隊粛清の後、ヘスはノイローゼ気味になり、心気症を患った。実務はマルティン・ボルマンに委ねられることが多くなり、ヒトラーとも徐々に疎遠になった。
同じ年に亡くなった人物
- ヘルマン・ラング (1987年没)
- ピーター・トッシュ (1987年没)
- ジルベルト・フレイレ (1987年没)
- バディ・リッチ (1987年没)
- ルイ・ド・ブロイ (1987年没)
同じ地域に関係する人物
- イマヌエル・ベッカー (1871年没)
- ヘルマン・ムテジウス (1927年没)
- フリードリヒ・シュライアマハー (1834年没)
- ヘレーネ・ランゲ (1930年没)
- オットー・グローテヴォール (1964年没)