伝記
フリードリヒ・ダニエル・エルンスト・シュライアマハーは、ドイツの神学者・哲学者・文献学者である。自由主義神学の先駆者、一般解釈学の開祖であり、ドイツ観念論の代表的思想家の一人でもある。1768年11月21日、シュレジエン地方のブレスラウ(現ポーランド領ヴロツワフ)で、改革派教会の牧師の家庭に生まれた。祖父ダニエルも牧師で、父ゴットリープはプロイセン軍に仕える改革派の従軍牧師であった。上ラウジッツのニースキーの寄宿制高等学校で、ヘルンフート兄弟団による教育を受け、1785年にマクデブルク近郊のバルビーの神学校に入った。しかし敬虔主義的な神学は、彼のしだいに強まる疑いを満足させなかった。父は渋々許可を与え、1787年、ハレの大学に移り、ヴォルフ派のエーバーハルトに師事した。
神学生として独自の読書をし、旧約聖書や東洋語の勉強はおろそかにしたが、ゼムラーの講義で新約聖書の歴史的批判の方法を知り、エーバーハルトからプラトンやアリストテレスの哲学への愛を得た。カントやヤコービの著作も読み、ギリシャ哲学の考えを使ってカントの体系を再構成しようとした。学生時代に深い懐疑を抱き、正統的なキリスト教を拒むようになった。父に宛てて、キリストを永遠の神とは信じられないと告白している。1790年に神学試験に合格し、ドーナ伯爵家の家庭教師の職を得て、教養ある貴族の家庭で、家族と社交生活への深い愛着を育てた。1794年に牧師に叙された。2年後の1796年にはベルリンのシャリテ慈善病院の牧師となった。説教の腕を伸ばす場に乏しく、都市の教養ある社交界や、哲学の研究に精神的な満足を求めた。友人のロマン派の作家シュレーゲルの影響を強く受け、1798年から7年間は、ベルリンの牧師の妻エレオノーレ・グルノウと親密な関係にあった。
この急速な発展の時期の産物が、1799年の『宗教論』と、新世紀への贈り物として書いた『独白』である。『宗教論』では、「宗教の本質は知識や行為ではなく、直観と感情である」とし、人間の本性の聖なる神秘のなかに宗教の不変の位置を与えた。『独白』では、精神の自由と独立についての倫理的な宣言を述べた。感情を中核にした信仰概念を説き、近代聖書解釈学を代表する人物となった。1802年から1804年には、ポメラニアの町シュトルプの小さな改革派教会の牧師を務め、シュレーゲルと分担していたプラトンの翻訳を引き受けた。1803年に最初の批判的・哲学的著作を出した。
1804年1月にヴュルツブルク大学の神学教授となり、同年10月にハレ大学に移ったが、1806年に同大学が閉鎖された。1811年にベルリン大学の教授と初代の神学部長に就任した。文献学、聖書解釈学、法解釈学といった個別の解釈学を超えて、日常言語まで含めた言語的所産の「理解」の原理について、一般解釈学の理論を提唱した。解釈は、言語の文法的側面と、語り手の個性を含む心理的側面の二つに即してなされるべきだとした。この思想はのちにディルタイに受け継がれ、ディルタイの処女作が彼の伝記『シュライアマハーの生涯』である。1834年2月12日、肺炎によりベルリンで亡くなった。「近代神学の父」とも評される。
同じ年に亡くなった人物
- ヘンリー・バサースト (第3代バサースト伯爵) (1834年没)
- マリア・フランシスカ・デ・アシス・デ・ブラガンサ (1834年没)
- ルイ・アントワーヌ・フォヴレ・ド・ブーリエンヌ (1834年没)
- ウィリアム・ワート (司法長官) (1834年没)
- カール・ハーディング (1834年没)
同じ地域に関係する人物
- ゲルハルト・ランプレヒト (1974年没)
- ユリウス・レーバー (1945年没)
- ゾフィー・ドロテア・フォン・ハノーファー (1757年没)
- フリードリヒ・ヴィルヘルム3世 (プロイセン王) (1840年没)
- アーデルベルト・フォン・シャミッソー (1838年没)