伝記
ルイ・ヴィクトル・ピエール・レーモン・ド・ブロイは、1892年8月15日にフランスのディエップで生まれた理論物理学者で、のちに第7代ブロイ公爵となった。ブロイ家は、ルイ14世によって授爵された名門貴族で、イタリア起源の家系とされ、数世紀にわたって軍事と政治の要職を占めた。父は第5代の当主ヴィクトルで、母はポーリーヌ・ダルマイエであった。祖父アルベール・ド・ブロイは、フランスの首相を二度務めた第4代当主である。5人のきょうだいがおり、17歳年上の兄モーリスはのちに著名な実験物理学者になり、姉のポーリーヌは作家になった。幼いころは、美しく魅力的で歴史の才能のある子供だったといわれる。ときに孤独だったが記憶力が強く、政治にも興味があった。
はじめは祖父の導きでソルボンヌ大学の歴史学を専攻し、1910年に歴史学の学位を得たが、やがて兄の影響で物理学に強い興味を持つようになった。1913年に理学の学位を得て、1914年に第一次世界大戦が始まると、無線通信の開発に従事した。兵役ではエッフェル塔の無線送信所に配属された。レオン・ブリルアンと兄とともに、潜水艦との無線通信の確立にも加わった。1919年8月に除隊した。のちに、約6年を科学の根本的な問題から遠く離れて過ごしたことを悔やんだという。戦後は兄とともに自宅の実験室で研究し、ソルボンヌ大学で物理学を修めて、1924年に物理学の博士号を得た。
博士論文では、のちに「ド・ブロイ波(物質波)」と呼ばれる仮説を提起した。アインシュタインは1905年の論文で、光電効果を、電磁波を粒子として解釈することで説明していた。また、博士論文を出す前年の1923年に、アーサー・コンプトンが電子によるX線の散乱を発見し、光量子説は有力な証拠を得た。これらに影響を受けて、逆に粒子もまた波動のように振る舞えるのではないかと考えたのである。仮説は、光子だけでなくすべての物質が波動性を持つとするもので、波長と運動量が関係づけられた。ところが大学の教授陣は、この論文の内容を完全には理解できなかった。教授の一人が、アインシュタインに意見を求めたところ、「この青年は博士号よりノーベル賞を受けるに値する」との返答を得たという。その予言は5年後に現実のものとなった。
1926年からソルボンヌ大学で教えるようになった。ド・ブロイ波の理論は、1927年に、電子回折を観察する2つの別々の実験で検証された。アバディーン大学のジョージ・パジェット・トムソンは、薄い金属の膜に電子ビームを通し、予想どおりの干渉パターンを得た。ベル研究所のクリントン・デイヴィソンとレスター・ジャマーは、ニッケルの単結晶で同じ結果を得た。1928年には、日本の菊池正士も電子線の干渉を観察している。同年にアンリ・ポアンカレ研究所の理論物理学教授となり、1929年に「電子の波動性の発見」によってノーベル物理学賞を受賞した。ド・ブロイの理論は、シュレーディンガーが波動力学を定式化する際の基礎となった。1944年にはアカデミー・フランセーズの会員となり、1952年にはユネスコのカリンガ賞を受賞した。1960年に兄が没すると、その子が早世していたため、公爵家の当主を継いだ。1962年にアンリ・ポアンカレ研究所を退官し、1987年3月19日に、パリ郊外のルーヴシエンヌで死去した。
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