伝記
アン・オブ・クレーヴズ(ドイツ語名アンナ・フォン・クレーフェ)は、1515年にデュッセルドルフで、ユーリヒ=クレーフェ=ベルク公ヨハン3世と妻マリアの娘として生まれた。誕生日は9月22日とされ、6月28日とする説もある。少女期はゾーリンゲン近郊のブルク城で育った。父はエラスムスの影響を受け、宗教改革の中で穏健な道を採り、皇帝カール5世に対抗してシュマルカルデン同盟の側についた。1527年、11歳のときにロレーヌ公の世継ぎフランソワと婚約したが、相手が幼く正式なものとみなされず、1535年に解消された。この婚約は、後に離婚の理由として持ち出されることになる。1526年には姉ジビュレが、ドイツのプロテスタント勢力の盟主とされるザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒに嫁いでいる。父が没した後は、兄ヴィルヘルムが公位を継いだ。
ヘンリー8世にプロテスタントの王妃をと望んでいた家臣トマス・クロムウェルらの意向で、アンは王妃の候補に選ばれた。1539年春、王は宮廷画家ハンス・ホルバインに命じ、アンと妹アマーリエの肖像画を描かせた。王は、できるだけ正確に描くよう画家に求めたという。アンは正規の教育を受けておらず、刺繍を得意とし、読み書きはラインラントのドイツ語だけで、音楽やダンスの素養もなかった。学識や音楽、ダンスを好んだ王とは対照的だったが、穏やかで貞淑で従順な人柄と評され、それが候補に推された理由とされる。婚姻条約は1539年秋に結ばれた。アンは冬の海を越えてイングランドに向かい、12月27日にケントに上陸し、31日にロチェスターに着いた。
ヘンリー8世は1540年1月1日、「愛を育むため」とクロムウェルに告げてアンと会ったが、翌日には婚約を解消できないかと打診した。正当な理由が見つからず、結婚式は1月6日に挙げられた。この結婚は、神聖ローマ皇帝カール5世と対立していた王が、政略結婚でプロテスタント支援を示すという狙いに基づくものとされる。しかし王がドイツのプロテスタント諸侯との同盟を解消してカール5世と和解しようとしたため、その障害となるクロムウェルは6月にロンドン塔へ投獄された。アンは6月25日に離縁を告げられ、最初は驚いて倒れたが、やがて同意した。離婚の理由には、ロレーヌ公との婚約を正式に解消していなかったことが選ばれた。結婚は7月12日に無効とされた。
その後は「王の妹」の称号と所領、年金を与えられ、ヒーヴァー城などを持ち、イングランドを出ることは禁じられたまま、ロンドン市内で余生を送った。次の王妃キャサリン・ハワードが失脚した後、アンを再び王妃にする動きがあったが、実現しなかった。アンはヘンリー8世とキャサリン・パーの結婚式に出席し、1553年にはメアリー1世の戴冠式にも列席した。英語にもやがて適応し、さほど不自由しなかったようである。ルター派だったため、メアリー1世の時代にはのちのエリザベス1世とともに、宮廷でミサに出席しない二人組となった。ヘンリー8世の6人の王妃のうち最後まで存命した。渡辺みどりは、離縁後も王族として扱われ、金銭的に不自由せず好きなことをして余生を送れたとして、6人の中で最も幸せな生涯だったとみる。アンは1557年7月16日に没し、8月3日にウェストミンスター寺院に埋葬された。
同じ年に亡くなった人物
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- アルブレヒト・アルキビアデス (1557年没)
- フェルナンデス・デ・オビエド (1557年)
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