伝記
ジョージ・グレンヴィルは、イギリスの政治家で、首相(在任1763年4月から1765年7月)を務めた。1712年10月14日、庶民院議員リチャード・グレンヴィルと、のちに初代テンプル女伯爵に叙されるヘスターの次男として生まれた。グレンヴィル家はバッキンガムシャーの大地主の家系で、兄は後に第2代テンプル伯爵を継ぐリチャード・グレンヴィル=テンプルである。イートン・カレッジで学んだのち、インナー・テンプル、オックスフォード大学クライスト・チャーチ、リンカーン法曹院に入り、1735年に弁護士資格を得た。
1741年の総選挙で庶民院議員となり、ホイッグ党に属した。妹ヘスターの夫である大ピットとともに反ウォルポール派に加わり、ウォルポール内閣の倒閣を目指した。処女演説は1742年1月で、戦争遂行を調べる秘密委員会の設置動議に賛成するものだった。ウォルポールの失脚後は、下級海軍卿、下級大蔵卿を経て、1754年から1756年にかけてのニューカッスル公の第一次内閣で海軍財務長官を務め、同年6月に枢密顧問官にも任じられた。第二次内閣でも海軍財務長官に再任された。しかし大ピットが1761年10月に辞職して野党に転じたとき、同道せず内閣に残り、大ピットに代わって庶民院院内総務を兼ねた。ジョージ3世とその寵臣ビュート伯からは、ニューカッスル公や大ピットと距離を置く姿勢を評価され、1762年5月にビュート伯内閣が成立してからも留任した。
ビュート伯は不人気なまま1763年4月に辞職し、後任としてグレンヴィルが組閣の大命を受けた。だが、彼を推挙したのも閣僚人事を選んだのもビュート伯であり、内閣は「ビュートの操り人形」と陰口された。議会の支持は得られず、同年8月には自ら国王に「秘密の影響力」に従わないよう説得する事態となった。同じころ、急進派の議員ジョン・ウィルクスが、パンフレット『ノース・ブリトン』45号で、七年戦争の講和を称える国王の勅語とビュート伯を批判すると、国王とグレンヴィルは扇動的な文書と見なし、逮捕者を特定しない「一般逮捕状」で関係者全員を逮捕するという強硬な手段をとった。これが議員特権の侵害ではないかという法律問題を引き起こし、ウィルクスは人身保護令状で釈放され、その後は庶民院から除名されて、フランスへ亡命した。臣民の自由が危機にさらされているという不安が高まり、政権に悪影響をもたらした。
植民地政策では、七年戦争で疲弊した財政の立て直しのため、1764年に砂糖法を制定し、1765年3月に植民地の出版物などに印紙を貼らせる印紙法を制定した。これは歳入を直接植民地で上げようとしたもので、マサチューセッツ州議会が、代表なくして課税するのは憲法の原則を破るとの決議を発するなど、広範な反発を招いた。この反発は、のちのアメリカ独立戦争の遠因となった。印紙法は、グレンヴィルの退陣後の1766年3月に廃止された。
1765年初頭に国王が病の発作を起こし、再発に備えて摂政法が制定されると、権力の制限を恐れた国王が強く反発し、関係は決定的に悪化した。国王はロッキンガム侯爵に接近し、グレンヴィルは同年7月に罷免された。以後は野党にとどまり、1770年11月13日に没した。三男ウィリアムも首相となっている。
同じ年に亡くなった人物
- ジュゼッペ・タルティーニ (1770年没)
- Charlotta Frolich (1770年)
- マーク・エイケンサイド (1770年)
- カール・グスタフ・テッシン (1770年)
- ディエゴ・デ・トレス・ビジャロエル (1770年)
同じ地域に関係する人物
- ミック・ロンソン (1993年没)
- アーサー・ニコルソン (初代カーノック男爵) (1928年没)
- マーガレット・ボーフォート (1509年没)
- ジェームズ・ランカスター (1618年没)
- リチャード・ウェストマコット (1856年没)