HISTORICAL PERSON · 1555年没

ゲオルク・アグリコラ

ドイツの鉱山学者・鉱物学者・医者で、「鉱山学の父」として知られる。ヨアヒムスタールの医者として鉱山学を研究し、1550年に代表作『デ・レ・メタリカ』全12巻を完成させ、後にケムニッツ市長を務めた。

生涯
1555年没
死亡地
ドイツ連邦共和国(ザクセン州 / ケムニッツ)
出生地
ドイツ連邦共和国(グラウハ)
出典
世界地図
ドイツ連邦共和国(ザクセン州)

伝記

ゲオルク・アグリコラは、ドイツの鉱山学者、鉱物学者、人文学者であり、医者でもあった人物で、「鉱山学の父」として知られる。本名はゲオルク・バウエルといい、この姓は「農夫」を意味する。アグリコラはそのラテン語名である。1494年3月24日、ザクセンのグラウハウに生まれ、1555年11月21日に没した。

生家は織物業と染色業を営み、彼は七人きょうだいの二番目だったとされる。幼少期についてはよく分かっていない。ツヴィッカウなどのラテン語学校で学んだのち、20歳前後でライプツィヒ大学に入り、神学、哲学、古典語、とくにギリシア語を修めた。ラテン語の最初の師には、エラスムスを支持する人文主義者ペトルス・モーゼラーヌスがいた。1518年から翌年にかけてツヴィッカウでギリシア語の教師となり、1520年には教師向けの助言を添えたラテン語文法の手引書を出している。その後ライプツィヒに戻り、医学、物理、化学も学んだ。

その後イタリアに留学して、ボローニャなどの大学で医学を修め、ヴェネツィアでは、印刷業の父と称されるアルドゥス・マヌティウスの創設した印刷所に加わり、ガレノスの著作集の編集に1526年まで携わった。印刷技術を学ぶため、ミラノのガラス工場も訪れたという。帰国後の1527年にはケムニッツで、シュネーベルクの寡婦アンナ・マイナーと結婚した。医者と薬剤師の職を求めて、鉱山の盛んなボヘミアのヨアヒムスタールに落ち着き、銀鉱の発見で栄えたこの町で、仕事の合間を惜しんで鉱山学の研究に打ち込んだ。地元の岩石や鉱物、精錬の方法を自分の目で調べ、鉱夫たちから聞いた知識とあわせて体系立てた。その成果を対話形式にまとめた『ベルマヌス』を1530年に出版し、エラスムスから高く評価された。医者としても、鉱山や労働者の家々を熱心に回ったと伝えられる。

1531年から1535年頃にはケムニッツに移ったとされ、そこで研究を続けた。1533年から代表作『デ・レ・メタリカ』を書き始め、1546年にはケムニッツの市長に任命されている。全12巻からなるラテン語の大著で、1550年に完成した。学問、採鉱、鉱脈や層、測量、採掘の道具や機械、鉱石、その砕き方や焙焼、融解、貴金属と卑金属の分離、塩やミョウバン、硫黄、ガラスの製法にいたるまでを扱う。実際に鉱山で働く人々の経験や発見、発明を科学の言葉に移した新しい体系だとされ、錬金術は頭から否定して軽蔑していた。彼は鉱物を、観察できる外見の特徴によって分類し、その方法は近代の経験科学の先駆とみなされる。多くの分野に通じていたことから、博識家とも呼ばれる。鉱山書の出版より前に著した『化石の本性について』では、化石を生物の遺物とし、鉱物の肉眼鑑定の特徴も記して、後世に基準を与えた。

1555年11月21日、宗教改革をめぐる動乱のなか、キリスト教徒との論争の最中に脳卒中で倒れ、亡くなったとされる。『デ・レ・メタリカ』の初版は、死の4か月後にバーゼルで刊行された。のちの1912年には、鉱山技師だったハーバート・フーヴァーが妻ルーとともに英訳し、これが当時最も信頼される英訳となった。日本では三枝博音の翻訳が刊行されている。ドイツ鉱物学会は、金属学や鉱山学の分野の業績に授与するゲオルク・アグリーコラ・メダルを創設している。

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