HISTORICAL PERSON · 紀元前12没

Lucius Orbilius Pupillus

紀元前1世紀のラテン語文法学者。ベネヴェントとローマで教え、教え子に詩人ホラティウスがいる。ホラティウスに鞭打ちを好む教師と評され、厳しい教育者の代名詞となった。奴隷の一人も文法学者になった。

生涯
紀元前12没
死亡地
イタリア共和国(ローマ県 / ローマ)
出生地
イタリア共和国(ベネヴェント)
出典
世界地図
イタリア共和国(ローマ県)

伝記

ルキウス・オルビリウス・プピッルスは、前1世紀のラテン語の文法家で教師である。前114年または前113年頃にベネウェントゥムに生まれ、前14年か前13年頃にローマで没したとされる。はじめベネウェントゥムで、のちローマで学校を開いて教え、詩人ホラティウスの師として知られ、生徒をよく鞭打つ厳しい教師の代名詞になった。プピッルスは「幼い孤児」を意味し、貴族の家名ではなく二重のあだ名のようなもので、平民の出身を示すという。ルキウスという名はスエトニウスによって与えられている。生涯の主な情報源は、スエトニウスの『文法家・修辞家伝』である。

若いころの彼は熱心な学生だった。しかしその時期に大きな不幸に見舞われ、両親が同じ日に暴力によって殺された。当時は同盟市戦争の時代で、マリウスとスッラの対立とも重なり、マグナ・グラエキア地方の数多くの住民が命を落としたという。自力で生きるほかなくなった彼は、役所の書記や使い走りの職に就いた。まもなく兵役にも就き、はじめは補助兵として、のちに騎兵としてマケドニアで務めた。務めを終えると、中断していた人文学の勉強を再開して修了した。

長く故郷で教えたのち、キケロが執政官だった前63年にローマに移った。教師の仕事を続けて名は高まったものの、豊かにはならず、高齢になるまで貧しい地区に住んだ。年をとっても気性の荒さは和らがなかった。文学上の論敵に対してもそうで、ときに論争したといわれる。生徒に対してもそうで、教え子のホラティウスは『書簡詩』第2巻第1歌で、この恩師に、手が早く打ちすえる者を意味する形容を与えている。また、政治家に皮肉な当てこすりを浴びせることも多かった。それはスエトニウスの逸話や、詩人ドミティウス・マルススの詩句からもうかがえる。

著作はほとんど残っていない。スエトニウスは、ギリシア語で「苦痛」を意味する題の書物を挙げる。親の怠慢や欲得のために教師が受ける侮辱を嘆いた内容である。ただし題名は正確でない可能性があり、写本の綴りは存在しない語になっているため、校訂者によって別の読みが提案されてきた。1960年の案のほか、1907年のフナイオーリによる案、1751年の案、1748年のありそうにない案などがある。ほかに断片が三つ、他の著者の引用を通じて伝わるにすぎない。それらは同義語への関心をうかがわせる。一つはスエトニウスに引かれ、一つはイシドルスの『語の差異』に、もう一つはプリスキアヌスの『文法教程』に引かれている。

ほぼ百歳で亡くなり、晩年には記憶を失っていたとされる。このことは、マルクス・フリウス・ビバクルスが皮肉を込めた警句に詠んでいる。生まれ故郷には彼の像が建てられ、パッリウムをまとって座り、傍らに二つの箱が置かれた姿だった。同じ名の息子も文法家で教師だった。彼の奴隷の一人だったスクリボニウス・アフロディシウスは、のちに自身も文法家になり、アウグストゥスの妻スクリボニアに買われた。のちの時代には、ホラティウスの短い描写が、うるさ型で旧弊で乱暴な教師の典型として、オランダの詩人ピーテル・ファン・ブラームなどの詩作に影響を与えた。少年期のランボーも、シャルルヴィルの中学校の通学生だったとき、最初のラテン語詩『春だった』を書き上げた。その詩でランボーは、病気の教師のかたわらで春の散歩を楽しむ若きホラティウスを想像している。

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