HISTORICAL PERSON · 紀元前700年代没

テフナクト

第24王朝のファラオ(在位前727年ごろ〜720年ごろ)で、サイスの知事から自ら王を名乗った。他の諸王と同盟を結んで下エジプトの盟主となったが、北進してきたヌビアの第25王朝に敗れて力を失った。

生涯
紀元前700年代没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

テフナクトは、古代エジプト第24王朝のファラオである。即位名はシェプセスラーで、在位は紀元前727年頃から前720年頃とされる。第22王朝の末期に下エジプト西部のサイスを治めた諸侯の一人で、王室の混乱のなかで頭角を現し、やがて自ら王を名乗った。求心力を失ったタニスの王家に代わって下エジプトの諸王の盟主となったが、北上してきたヌビアの第25王朝との戦いに敗れて力を失った。

テフナクトの名は、第22王朝のシェションク5世の治世36年と38年の日付をもつ二つの石碑に見える。ブトに建てられたもので、前734年と前732年にあたるとされる。そこでは「全土の偉大なる首長」を称し、ネイト神とウアジェト神、イマイの女主人に仕える預言者の地位にもあったと記される。ネイトはサイスの主神、ウアジェトはブトの守護神、イマイの女主人はハトホル神の別名である。サイス、ブト、コム・エル・ヒスンという三つの町を含む西デルタで、名目上の主君であった第22王朝をしのぐ支持基盤を得ていたことがうかがえる。

ピアンキの碑文には、マア族の偉大なる首長、西方の偉大なる首長といった、リビア人部族の首長の称号も付されている。研究者は長くこれを、エジプトに定住して間もないリビア系の一族の出自を示すものと考えてきた。しかし近年出土した像には、父がゲムネフスウトカプ、祖父がサイスのアメン神官で宰相でもあったバサと記されている。このためテフナクト自身は土着のエジプト人で、リビアの首長の地位は先代のサイス侯とみられるオソルコンらから引き継いだ可能性が高くなった。西方の首長の位はアンクホルも用いていた。別の説では、ケル、ルダムン、アンクホルと続く首長の系譜のあとにテフナクトが来るとされ、最初の石碑では「リブ族の偉大なる首長」「西方諸州の首長」とも称されている。第24王朝は一代で築かれたというより、西デルタに形づくられつつあった独立勢力を継承して発展させたものとみる見方が正確だとされる。

紀元前8世紀のエジプトでは、第22王朝の支配を離れた勢力が並び立ち、それぞれ王を名乗っていた。シェションク5世が没する前後から、テフナクトは他の諸王と同盟を結び、連合体にまとめ上げて抜きん出た影響力を得たとされる。中部エジプトの第23王朝をはじめ、連合の諸王には第22王朝の傍流の王族を出自とする者が多かった。だがテフナクトは王家と縁戚をもたない地方の一領主からファラオに上り詰めた点で、特異な存在である。前731年頃にシェションク5世が没すると、デルタの残りへ勢力を広げ、メンフィスにも領域を伸ばしたと考えられている。

やがてヌビアの王ピアンキが北進すると、ヘラクレオポリスの王ペフトジャウアウィバステトらがピアンキと結んだ。テフナクトはこれに対して、ブバスティスの王やレオントポリスの王イウプト2世、ブシリスやメンデスなどの首長を集めて連合を組んだ。連合はヘラクレオポリスを包囲したが、ピアンキの軍に敗れ、メンフィスでも大敗した。その戦いのなかで、テフナクトの息子の一人が命を落としたという。テフナクトはサイスへ逃れた。他の王や首長はピアンキに服従したが、彼だけは出向かず、追撃しないなら王として認めるとの伝言と贈り物を送って遠くから服従した。治世21年(前723年頃)の勝利の石碑に、北部の諸侯のなかで唯一その姿が描かれていない。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物

該当人物はまだありません。