伝記
アレクサンデル8世は、17世紀末のローマ教皇である。本名はピエトロ・ヴィート・オットボーニで、1610年4月22日に生まれ、1689年から1691年まで在位した。「アレクサンデル」を名乗った最後の教皇でもある。ヴェネツィアの名家の出身で、父はヴェネツィア共和国の大法官マルコ・オットボーニ、母はヴィットリア・トルニエッリであり、9人きょうだいの末子であった。一族は1499年のゾンキオの海戦を契機に貴族に迎えられ、のちに外交の仕事で財を築いて、17世紀に貴族の財産条件も満たしたとされる。
学問ではパドヴァ大学で優れた成績を収め、1627年に教会法と民法の博士号を得た。その後ローマに出て、ウルバヌス8世の時代に教皇庁の署名院で参事官を務め、テルニ、リエーティ、チッタ・ディ・カステッロ、スポレートなどの都市の統治にあたり、ローマ控訴院の審理官にもなった。1652年にヴェネツィア政府の要請を受けたインノケンティウス10世により枢機卿となり、1654年にブレシアの司教に任じられ、叙階はローマのサン・マルコ教会で受けた。ブレシアでは静かな10年あまりを過ごし、1664年に司教職を辞している。その後も枢機卿としての名義教会を変えながら地位を上げ、1681年にサビーナ、1683年にフラスカーティ、1687年にポルトとサンタ・ルフィーナの枢機卿司教となり、同年から選出まで枢機卿団の副首席を務めた。
1689年10月6日、インノケンティウス11世の後を継いで教皇に選ばれた。フランス王ルイ14世の大使が選出を後押ししたとされ、教皇名は、支持者のフラヴィオ・キージ枢機卿がかつてのアレクサンデル7世の甥であったことへの感謝から選んだという。選挙では、キージ派がまずヴェネツィア人のバルバリゴ枢機卿を擁立してみせて反応を探り、真の候補であったオットボーニの選出に道を開いたとされる。バルバリゴは多くの票を集めたが、それ以上は伸びなかった。インノケンティウス11世の路線の継続を望む側はこの策に気づいて憤慨したものの、キージ派は特定の候補に票を投じず、フランスの枢機卿たちの到着を待つと称していたため、オットボーニの候補は傷つかなかった。ヴェネツィアの側もマドリードとウィーンの支持を大使を通じて取りつけていた。10月16日に戴冠し、10月28日にラテラノ大聖堂に入った。
在位は短く、重要な事績は少ないとされる。前任者の政策の多くを覆し、ルイ14世との関係とは別に、1682年にフランスの聖職者団が出した「ガリカニスムの4か条」を、数か月の交渉の末に断罪した。ジャンセニスムには厳しく、イエズス会系の学校で教えられていた「哲学的罪」の教説も断罪した。治世にはルイ14世がアヴィニョンを教皇領として返還した。一方で、親族を重用して一族を富ませたため、慈善事業の大きな支出もあって教皇庁の財政は破綻寸前となり、後継のインノケンティウス12世が緊縮策を迫られた。学問への関心は高く、当時イタリアで暮らしていたスウェーデン女王クリスティーナの蔵書を、バチカン図書館のために購入した。1691年2月1日に没した。若くから法学を修めた教皇の最期であった。
同じ年に亡くなった人物
- アドリアン・オーズー (1691年没)
- Frederick I of Saxe-Gotha-Altenburg (1691年)
- ジャン=アンリ・ダングルベール (1691年没)
- フランソワ=ミシェル・ル・テリエ (1691年没)
- ヘンドリック・ファン・レーデ (1691年)
同じ地域に関係する人物
- マニウス・トゥッリウス・ロングス (紀元前500年没)
- ルキウス・クィンクティウス・フラミニヌス (紀元前170年没)
- レギオモンタヌス (1476年没)
- ミケーレ・ビアンキ (1930年没)
- ジョヴァンニ・チェルリ (2013年没)