伝記
馬騰(ば とう)は、後漢末期の将軍で、字は寿成。司隷右扶風茂陵県の人とされ、212年5月に没した。涼州の有力な軍閥の一人で、朝廷に対して反乱と帰順を繰り返しながら関中・隴右に割拠する代表的な勢力に成長したが、やがて曹操に従う姿勢を見せるようになった。入朝して九卿の位に就いたものの、実質は人質でもあり、子の馬超が起こした反乱に連座して処刑された。
馬騰は後漢初期の名将馬援の子孫とされる。実際の出生地は涼州の隴西郡で、父の馬平は桓帝の時代に天水郡蘭干県の県尉だったが、官を失ったのちも隴西にとどまり、羌と雑居した。貧しく妻がいなかった馬平は羌の娘を娶り、その子として馬騰が生まれた。若いころの馬騰は土地を持たず、山で薪を伐って城市で売り、暮らしを立てていた。成人すると身長は八尺余り(約184センチ)の堂々とした体格で、性格は温厚かつ賢明であり、多くの人に尊敬されたという。184年に氐や羌が反乱を起こすと、涼州刺史の耿鄙は勇敢な者を募り、馬騰はこれに応じた。役人たちはただ者ではないと見て軍従事に抜擢し、馬騰は功を挙げて軍司馬となった。187年に耿鄙が韓遂に殺されると、馬騰は韓遂ら反乱勢力に加わって三輔に侵入し、188年に陳倉を包囲したが落とせず、189年に皇甫嵩の援軍に破られた。
190年に董卓が長安へ遷都すると、馬騰は韓遂とともに招きに応じて出仕し、軍功で偏将軍となった。192年に董卓が暗殺され、李傕と郭汜が政権を握ると恭順して征西将軍となり、のちに征東将軍に転じた。しかし、兵に与える穀物の融通を李傕に求めて聞き入れられず対立し、益州刺史の劉焉と結んで長安襲撃を計画した。194年3月、長平観で李傕側と戦ったが、計画が漏れ、さらに王承らに陣営を攻められて壊滅し、涼州へ敗走した。同年4月には慰撫のため安狄将軍の称号を与えられている。
198年に李傕が誅殺され、曹操陣営が政権の中枢となった。馬騰は韓遂と義兄弟の契りを結んでいたが、建安の初めには互いに攻撃し合い、韓遂は馬騰の妻子を殺した。曹操が派遣した鍾繇と韋端の仲介で争いは収まり、双方は子を人質として入朝させた。馬騰は槐里に駐屯して前将軍・仮節となり、槐里侯に封ぜられ、北では胡族、東では白騎に備えた。士人を厚遇して賢者を推挙し、民をいたわったので、三輔は安定し、人々は深く敬愛したという。202年には、鍾繇の使者張既の説得を受けて、子の馬超と1万余りの兵を送り、袁尚配下の郭援らの撃破に貢献した。この年に征南将軍となり、開府も許された。
208年、曹操は荊州遠征に先立ち、関中に割拠する馬騰を警戒し、張既を遣わして部曲を解散して入朝するよう説かせた。馬騰は承諾しながらすぐには動かなかったが、張既が各県に食糧を用意させ、太守に出迎えさせたため、やむなく出立し、12月に衛尉となった。子の馬休は奉車都尉、馬鉄は騎都尉に任じられ、一族は鄴に移って、実質的に曹操の人質となった。関中に残った馬超は解体された馬騰の軍勢を引き継いだ。211年、馬超ら関隴の諸将は曹操の漢中侵攻に疑念を抱いて抵抗し、潼関の戦いで大敗した。馬超は降伏せず涼州へ逃れ、翌212年1月に隴上で蜂起して隴右を席巻した。同年5月、馬騰はこの反乱に連座して誅殺され、三族皆殺しとなった。小説『三国志演義』では、馬騰は漢王朝への忠誠を尽くす人物として描かれ、曹操暗殺の計画が漏れて殺されることになっている。
同じ年に亡くなった人物
- フルウィア・プラウティッラ (212年没)
- セレヌス・サンモニクス (212年没)
- アエミリウス・パーピニアーヌス (212年没)
- 小コルニフィキア (212年没)
- 荀彧 (212年没)