伝記
荀彧(じゅん いく)は、後漢末期の政治家で、字は文若。豫州潁川郡潁陰県の人である。若いころから才名が高く、「王佐の才」と称えられた。後漢末の動乱のなかで、朝廷の実権を握った曹操のもとで数々の献策を行い、その覇業を支えた。しかし、曹操が魏公となることに反対して対立し、晩年は不遇であった。212年に世を去った。
荀彧の家は名門だった。祖父の荀淑は儒学に通じ、権勢を誇った梁冀の一族を批判して清廉を貫き、「神君」と呼ばれて尊敬された。荀淑の八人の子は「八龍」と称され、荀彧の父は次男の荀緄である。叔父の荀爽や、年長の従子で後に曹操に仕える荀攸も同族にあたる。荀彧は何顒から「王佐の才」と評された。189年に董卓が少帝を廃して献帝を立てると、孝廉に推挙されて守宮令となったが、董卓の乱が起こると亢父の令への転任を願い出て官を捨て、故郷へ帰った。戦乱を予感して古老たちに郷里を離れるよう説いたが従わず、冀州牧の韓馥の迎えを受け、一族だけを連れて冀州へ避難した。まもなく故郷は董卓配下の李傕らの軍に襲われ、多くの被害が出た。
冀州に着いたときには韓馥はすでに袁紹に地位を奪われていた。荀彧は袁紹に上賓の礼で迎えられたが、袁紹は大業をなせる人物ではないと判断し、そのもとを去って、東郡にいた曹操に身を寄せた。曹操は「わが子房である」と大いに喜んだ。子房とは劉邦を助けた張良の字である。191年、荀彧が29歳のときだった。194年に曹操が徐州の陶謙を攻めた際には、程昱とともに根拠地の兗州の留守を任された。張邈と陳宮が呂布を引き入れて謀反を起こすと、荀彧は鄄城への偽りの誘いを見破り、夏侯惇を呼び寄せて軍内の反乱分子を一掃させ、豫州刺史の郭貢を中立にとどめ、曹操の帰還まで三つの城を守り抜いた。翌年、陶謙の病死を受けて再び徐州を攻めようとする曹操に対しては、まず兗州を固めるべきだと諫め、曹操はこれに従って呂布を破り、兗州を平定した。
196年、荀彧は洛陽に逃れてきた献帝を迎え入れるよう曹操に勧め、曹操は献帝を許に迎えた。この功で曹操は大将軍、荀彧は侍中・尚書令となった。曹操は出征中も軍事・国事のすべてを荀彧に相談した。荀彧は人材の推挙にも力を発揮し、荀攸、鍾繇、郭嘉、陳羣、司馬懿らを推した。登用した人物のうち大臣に昇った者は十数人を数えたという。袁紹との対決では、曹操の長所と袁紹の短所を挙げて励まし、関中の諸勢力は鍾繇に任せて抑えるよう献策した。200年の官渡の戦いでは許都の留守を預かり、退却を考える曹操に、必ず袁紹軍に変事が起きると説いて踏みとどまらせた。袁紹軍は内部分裂を起こし、曹操は奇襲で勝利を収めた。203年には万歳亭侯に封ぜられ、のちに領邑は2000戸となり、子の荀惲には曹操の娘が嫁いだ。それでも財産は親類縁者に配り、家に余財はなかったという。曹操が三公に推そうとしたときも、荀彧は何度も辞退した。208年の荊州攻めでは、軽装の兵で敵の不意を衝くよう勧め、劉表の死後に子の劉琮が降伏する結果となった。
212年、董昭らは曹操を国公に進め、九錫を授けようと準備を進めた。荀彧は儒者の立場から、曹操が義兵を起こしたのは朝廷を救い国家を安定させるためであり、真心の忠誠と偽りのない謙譲を守り通すべきだという趣旨で反対した。この反対によって曹操と対立し、荀彧の晩年は不遇となり、同年に没した。
同じ年に亡くなった人物
- フルウィア・プラウティッラ (212年没)
- 馬騰 (212年没)
- アエミリウス・パーピニアーヌス (212年没)
- 小コルニフィキア (212年没)
- セレヌス・サンモニクス (212年没)