伝記
キャサリン・ハワードは、1542年2月13日に処刑されたイングランド王ヘンリー8世の5番目の王妃である。生年ははっきりせず、1518年から1524年の間で1523年ごろとする説が有力とされ、祖父母の遺言状を元に1525年とする説を唱える歴史学者もいる。父は第2代ノーフォーク公の息子エドマンド・ハワードで、第3代ノーフォーク公の弟にあたる。母はジョイス・カルペパーである。ヘンリー8世の2番目の王妃アン・ブーリンの従妹にあたり、3番目の王妃ジェーン・シーモアの再従妹でもあった。
父は戦場で名を上げたが、名門ハワード家の出といっても、遅い生まれのため財産に恵まれず、常に金に困っていた。持参金目当てで結婚しては妻を亡くすことを繰り返し、妻の連れ子も自分の子として育てたため、どちらの子供かもわからないハワード姓の兄弟がキャサリンには多くいた。時期は不明だが、母の死後まもなく、父の義理の母にあたるノーフォーク公爵未亡人アグネスに引き取られ、サセックスとランベスの屋敷で、公爵夫人の教育を受ける他の少女たちと暮らした。公爵夫人は宮廷にいることが多く、目が行き届かなかったため、少女たちは規律を欠いた暮らしを送った。キャサリンは、読み書きの力は当時として十分あったが、洗練された教育を受けたわけではなく、快活で朗らかな性格だったとされる。音楽教師ヘンリー・マノックスや、公爵夫人の秘書官フランシス・デレハムと関係をもったともいわれる。
1540年、ヘンリー8世は前王妃アン・オブ・クレーヴズとの結婚を無効とし、7月28日にサリー州のオートランズ宮殿でキャサリンと結婚した。国王は49歳、キャサリンはまだ10代の若さだったとされる。キャサリンはアンの侍女の一人で、王は年の離れた彼女を「私の薔薇」「私の棘のない薔薇」と呼んで可愛がった。ところが、遠縁のトマス・カルペパーや、以前の恋人デレハムらと関係があったと国王の側近に訴えられ、国王に姦通を疑われて逮捕された。婚約したうえでデレハムと関係をもっていたのであれば、国王との結婚は無効となり、キャサリンは無罪となるはずであったが、婚約を否定し、デレハムに強姦されたと証言した。デレハムは、国王との結婚後は関係をもっていないと主張しつつ、キャサリンとカルペパーの関係を証言した。キャサリンからカルペパーへ愛を告白した手紙が証拠として発見され、侍女のジェーン・ブーリンが手引きをしていたことも明らかになった。キャサリン本人は姦通を否定したが聞き入れられず、1541年11月に王妃の称号を剥奪され、3か月後に斬首された。処刑前には、「トマス・カルペパーの妻として死にたかった」と言ったと伝えられる。
キャサリンが夫に直訴しようとした宮殿の廊下は、今も幽霊が無実を訴えて出没する「ホーンテッド・ギャラリー」として知られる。ミサを聞く国王の部屋の数メートル手前で警備兵に捕まり、牢へ連れ戻されたという話である。しかし歴史学者デニーは、直訴自体がなかったことを事実を並べて証明している。キャサリン・ハワードとはっきりわかっている肖像画はなく、デイヴィッド・スターキーがキャサリンと確認した肖像画も、他の王妃が身に着けたネックレスを根拠とするものである。
同じ年に亡くなった人物
- Angelo Beolco (1542年)
- フィロフェイ (1542年)
- ドッソ・ドッシ (1542年没)
- ジェーン・ブーリン (1542年没)
- ガスパロ・コンタリーニ (1542年)
同じ地域に関係する人物
- トマス・モア (1535年没)
- エリザベス・オブ・ヨーク (1503年没)
- エドワード5世 (イングランド王) (1480年代没)
- ジェーン・グレイ (1554年没)
- ヘンリー6世 (イングランド王) (1471年没)