伝記
エドワード5世は、1470年11月2日、ヨーク朝の国王エドワード4世と王妃エリザベス・ウッドヴィルの長男として、ウェストミンスター寺院に隣接するチェイニーゲイツで生まれた。薔薇戦争の中で父が王位を追われていた時期で、母は聖域に身を寄せていたランカスター派の追及を避けていたとされる。父が復位した1471年6月にウェールズ大公となり、1473年には新設されたウェールズ辺境評議会の名目上の議長として、ウェールズとの境にあるラドロー城に置かれた。1479年には父からペンブルック伯位を与えられた。
少年期は、学者として知られる母方の叔父アンソニー・ウッドヴィル(リヴァーズ伯)の監督下に置かれた。父は伯に宛てた手紙で、朝は定められた時刻に起き、朝課とミサを欠かさず受け、その後に有徳の学びを行い、徳や名誉を語る物語を聞き、悪徳を誘うものには触れさせないなど、養育と側近の選び方を細かく定めている。1480年には、ブルターニュ公フランソワ2世の4歳の娘で跡継ぎのアンヌとの婚約が結ばれた。
1483年4月9日に父が急死し、12歳のエドワードは王位を継いだ。その知らせを受けたのは4月14日、ラドロー城でのことだった。父の遺言(現存しない)は、信頼する弟のグロスター公リチャードを摂政に指名していたという。エドワードは4月24日にラドローを発った。リチャードはノーサンプトンで合流するつもりだったが、王の一行はすでにストーニー・ストラットフォードへ進んでいた。4月30日の朝、リヴァーズ伯と王の異父兄リチャード・グレイ、侍従長トマス・ヴォーンが逮捕されて北へ送られ、のちにいずれも処刑された。エドワードは抗議したと伝えられるが、随行者は解散させられ、グロスター公が王をロンドンへ連れて行った。5月19日にロンドン塔に入り、6月16日には弟のヨーク公リチャードも合流した。
枢密院は早い戴冠を望んでいたが、リチャードは何度も延期した。6月22日、ラルフ・シャーが、エドワード4世がエリザベスと結婚する前にエレノア・バトラーと婚約していたとして、この結婚は無効で子は庶子だと説教した。6月25日、議会はこれを受けて王位継承の無効を議決し、エドワード5世は戴冠しないまま退位となった。グロスター公はリチャード3世として即位し、兄弟の消息はその後判明していない。
1484年の春には、兄弟はすでに殺されたという噂が市内で囁かれたと、1512年頃の『ロンドン年代記』にある。1485年にリチャード3世はボズワースの戦いで王位請求者ヘンリー・テューダーに討たれ、ヘンリー7世として即位して、エドワード5世の姉エリザベス・オブ・ヨークと結婚した。当時は叔父リチャード3世の指示による暗殺と考えられ、トマス・モアは1513年の『リチャード3世伝』で、ジェイムズ・ティレルの配下による窒息死と記した。18世紀にはホレス・ウォルポールがリチャード3世の潔白を唱え、現在ではヘンリー7世が深く関わったとする説も有力とされる。1674年にロンドン塔で子供の骨が見つかり、1678年にウェストミンスター寺院に安置されたが、1933年の鑑定でも性別や年齢は特定されなかった。2020年には、1487年時点で存命だったことを示す当時の文書が見つかったと伝えられる。
同じ年に亡くなった人物
- トリスタン・ヴァス・テイシェイラ (1480年没)
- ウルリヒ5世 (1480年)
- ハンス・タールホファー (1480年代没)
- エレノア・オブ・スコットランド (1480年没)
- バサラブ3世ライオタ (1480年没)
同じ地域に関係する人物
- ヘンリー6世 (イングランド王) (1471年没)
- デヴィッド・リーン (1991年没)
- トマス・モア (1535年没)
- ジョン・ホプナー (1810年没)
- ジョン・ボーフォート (初代サマセット伯) (1410年没)