伝記
エリザベス・オブ・ヨークは、1466年2月11日にウェストミンスター宮殿で、イングランド王エドワード4世と王妃エリザベス・ウッドヴィルの長女として生まれた。洗礼はウェストミンスター寺院で行われた。3歳の頃、ヨーク派の実力者モンターギュ侯ジョン・ネヴィルの息子ジョージ・ネヴィルと婚約したが、ジョン・ネヴィルが反乱を起こして敗れたために破約となった。次にフランス王ルイ11世の王子シャルル(のちのシャルル8世)と婚約したものの、これもルイ11世によって破約された。未来のフランス王妃として扱われた時期には、フランス、イタリア、スペインから語学の教師が招かれ、オクスフォードの学者や書家が彼女の教育にあたったとされる。
1483年にエドワード4世が急死すると、エリザベスの幼い弟が後を継いでエドワード5世となり、父の弟グロスター公リチャードが摂政となった。グロスター公はエドワード5世を母から切り離そうとしてロンドン塔に監禁した。母エリザベス・ウッドヴィルは、末息子のリチャードと娘たちとともにウェストミンスター寺院に閉じこもったが、のちにグロスター公の要求に応じて、リチャードをエドワード5世の話し相手としてロンドン塔に送った。2カ月後、エドワード4世とエリザベス・ウッドヴィルの婚姻は無効と宣言され、議会の決議により、二人の子供たちはすべて庶子となって王位継承権を失った。これによってグロスター公がリチャード3世として即位した。ロンドン塔の二人の王子はその後姿を消し、殺されたと噂された。
リチャード3世に追い込まれた母は、ランカスター派の有力な王位継承候補であったリッチモンド伯ヘンリー・テューダーの母マーガレット・ボーフォートと同盟を結び、ヘンリーとエリザベスを婚約させた。ヘンリーは王の血を引いてはいたが立場が弱く、この婚約により王位継承権が強化されることになった。1485年にヘンリーは軍を率いてウェールズに上陸し、ボズワースの戦いでリチャード3世を戦死させ、ヘンリー7世として即位してテューダー朝を創始した。エリザベスは弟たちがみな亡くなり最年長の娘となっていたので有力な王位継承権を持っていたが、ヘンリーは当初、結婚による継承権の強化を選ばず、征服による王位を主張し、エリザベスとの結婚前に戴冠した。そのうえで、エドワード4世夫妻の結婚を無効とした議会の決議を覆し、二人の子を庶子から嫡出子の状態に戻し、1486年にエリザベスと結婚した。同年、アーサーが生まれ、翌1487年にエリザベスは正式に王妃として戴冠された。
政略結婚であったにもかかわらず二人は仲睦まじく、互いを愛するようになった。姑マーガレット・ボーフォートの強い意思のもと、エリザベスは政治的な影響力を行使せず、静かな生活を送った。二人の間には8人の子が生まれ、3人が成人した。その中には、スコットランド王ジェームズ4世の妃となったマーガレット、のちのヘンリー8世、フランス王ルイ12世の妃となったメアリーがいる。以後のイングランドの君主は、いずれもエリザベスの血を引く。1502年に長男アーサーが亡くなると、ヘンリーは息子が一人だけになったことを嘆き、テューダー朝が続かないのではと心配したが、エリザベスは、ヘンリー自身も一人息子ながら無事に成長して王朝を開いたと指摘して慰めた。その後、再び妊娠したが、産褥死を遂げ、夫は深く悲しんだと伝えられる。
同じ年に亡くなった人物
- ヌール・デヴレト (1503年)
- ゾイ・パレオロギナ (1503年没)
- エリザベス・オブ・ヨーク (サフォーク公妃) (1503年(推定))
- Juan de Borja Lanzol de Romani, el mayor (1503年)
- Katherine Tudor (1503年没)
同じ地域に関係する人物
- アン・ブーリン (1536年没)
- トマス・モア (1535年没)
- ジョン・ボーフォート (初代サマセット伯) (1410年没)
- Katherine Tudor (1503年没)
- エリザベス・ストライド (1888年没)