HISTORICAL PERSON · 1983年没

イドリース1世 (リビア王)

リビア王国の初代にして最後の国王で、在位は1951年から1969年。東部キレナイカのサヌーシー教団を率いる家に生まれ、イタリア支配に抵抗した。

生涯
1983年没
死亡地
エジプト・アラブ共和国(カイロ県 / カイロ)
出生地
リビア国(ジャグバーブ)
出典
世界地図
エジプト・アラブ共和国(カイロ県)

伝記

イドリース1世は、リビア王国の初代にして最後の国王である。在位は1951年12月24日から1969年9月1日までで、ムハンマド・イドリースとも呼ばれる。1889年3月12日、リビア東部キレナイカのジャグブーブに、サヌーシー教団を長年率いてきたサヌーシー家の人として生まれた。教団の創始者の孫にあたり、一族はイスラム教の預言者ムハンマドの娘ファーティマの子孫を称した。サヌーシー国家の将来の指導者となるべく育てられた。教団はキレナイカで、巡礼と交易の道筋を管理し、部族をまとめ、税を集めて、一種の統治を行っていた。

1911年の伊土戦争でリビアはイタリアにより植民地化された。1913年にイタリア軍がキレナイカに侵攻すると、教団はこれに抵抗した。1916年、従兄弟の教団長アフマド・シャリーフが退くと、イドリースが後を継いだ。彼は、オスマン帝国の命令でエジプトのイギリス軍を攻撃していた従兄弟とは異なり、イギリスと暗黙の同盟を結び、この関係は半世紀続いた。イギリスを仲介役として、イタリアとの交渉に臨み、1916年にザウィティーナ、1917年にアクラマで協定を結び、キレナイカの大部分が教団の支配下に置かれた。1920年10月のラジュマ協定では、イタリアはイドリースにキレナイカの首長の称号を認め、オアシスの自治的な統治も認めた。1922年には、内戦に陥っていたトリポリタニアの指導者たちの要請を受け、7月28日の文書で、首長領をトリポリタニアにも広げるよう求められた。顧問たちの意見は割れたが、同年11月、彼はこれを受け入れた。イタリアはこの統一に反対した。

イタリアとの関係は悪化し、1922年から長く亡命の生活を送った。第二次世界大戦では、枢軸国の一員として参戦したイタリアに対して連合国側につき、教団は戦った。1943年にイタリアが敗れたのちのリビアは、イギリスとフランスの共同統治領とされた。このため、イドリースは長年、宗主国の下でキレナイカでの一定の自治を認められたにとどまり、元首の地位には就けなかった。しかし、国際連合の決議により、キレナイカ、トリポリタニア、フェッザーンの3州による連合王国として、リビア王国がイギリスより独立した1951年12月24日、彼は国王に即位した。

即位後は、冷戦下で旧宗主国のイギリスやアメリカと緊密な関係を保ち、両国の石油関連企業が国内で石油を掘削する際の後見人のような立場になった。政党を禁じ、1963年には連邦制を単一制に改めた。1959年に石油が見つかると、産業が急成長して経済を潤した。しかし、アラブ民族主義とアラブ社会主義の高まりや、汚職への不満、西側諸国との結びつきのため、体制は弱まった。1969年9月1日、病気療養のためトルコに滞在していたとき、カッザーフィー陸軍大尉らが無血のクーデターを起こし、廃位された。亡命を余儀なくされ、しばらくトルコに滞在したのち、隣国エジプトに移り、1983年5月25日にカイロで死去した。

その死後、カッザーフィーに対する国民の不満が爆発して、2011年にリビア内戦が起きた。反カッザーフィー勢力の側では、王国時代の国旗とイドリース1世の写真が掲げられ、リビア国民評議会も王国時代の国旗を使った。

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