HISTORICAL PERSON · 1983年没

デヴィッド・ニーヴン

イギリスの俳優。しゃれた髭が特徴で、都会的な紳士役で人気を博し、「スクリーンの粋の化身」と称された。士官学校を出て軍人となったが除隊し、俳優に転じた。

生涯
1983年没
死亡地
スイス連邦(ヴォー州 / シャトーデー)
出生地
イギリス連邦(ロンドン)
出典
世界地図
スイス連邦(ヴォー州)

伝記

デヴィッド・ニーヴンは、1910年3月1日にロンドンで生まれ、1983年7月29日に没したイギリスの俳優である。本名はジェームズ・デヴィッド・グレアム・ニーヴン。しゃれた髭が特徴で、都会的な紳士役で長らく人気を博し、「スクリーンの粋の化身」と称された。

上流中産階級の家に生まれ、聖デイヴィッドの祝日に生まれたことからデヴィッドと名付けられた。後年、自分は1909年にスコットランドのアンガス州で生まれたと語ったが、出生証明書がそれを否定している。姉が二人と兄が一人いた。父ウィリアムは軍人で、1915年8月、第一次世界大戦のガリポリの戦いで戦死した。母ヘンリエッタは、1917年に保守党の政治家で外交官のトマス・コミン=プラットと再婚した。デヴィッドと姉は、この継父を嫌ったという。一家は、ロンドンの家を売って、ワイト島ベンブリッジの小さな家に移り、デヴィッドはそこでこれまでになく幸せだったと、1971年の自伝に書いている。ヒーザーダウン、サウスシー、バックスの学校を転々とし、サンドハースト王立陸軍士官学校に入った。卒業後は、ハイランド軽歩兵連隊に少尉として入隊し、マルタ島駐屯が多かったが、平時の軍務に満足できず、1933年に除隊した。

その後はカナダに渡り、職を転々としたのち、近衛歩兵第1連隊の元中佐の援助でアメリカ合衆国へ向かった。ニューヨークでもパーティーの給仕やセールスマンなど様々な職についた。映画の仕事を得ようとカリフォルニア州に向かい、エキストラ協会に登録した。最初のエキストラの仕事は、メキシコ人の役だったという。1934年にエドマンド・グールディング監督と知り合い、大物プロデューサーのサミュエル・ゴールドウィンに拾われて、1935年の『過去から来た男』で初めてセリフのある役を与えられた。その後は、1949年に契約が切れるまでゴールドウィンのもとで、第2のロナルド・コールマンとして売り出されたが、演技の素養がないことが災いして、次第に伸び悩んだとされる。

1939年から1945年の第二次世界大戦中は、イギリス陸軍に中尉として従軍し、戦時階級で大尉に昇進した。応召した最初のハリウッド・スターで、ブリティッシュ・コマンドスにも参加した。戦後は再びアメリカに活動の拠点を移した。知的でユーモアのある独特の雰囲気から人気が出て、1970年代まで安定した人気を保った。1952年にディック・パウエルらとフォー・スター・テレビジョン・カンパニーを設立し、テレビ番組を製作して、1956年に権利を1000万ドルで売却した。1956年の『八十日間世界一周』では気高いイギリス紳士を演じ、1958年の『旅路』でアカデミー主演男優賞を受賞した。1962年の『ピンクの豹』では怪盗ファントム役で出演している。

1967年の『007/カジノロワイヤル』では、ジェームズ・ボンドを演じた。原作者イアン・フレミングが、最初のボンド役に最も望んだのが彼だったといわれる。自身も文筆の才能があり、1971年に出した自伝はベストセラーになった。晩年は長い闘病生活を送り、1983年にスイスで、筋萎縮性側索硬化症のため世を去った。遺作は、20年ぶりに当たり役のファントムを演じた『ピンク・パンサー5 クルーゾーは二度死ぬ』である。1940年にプリムラ・ロロと結婚して2人の息子をもうけたが、1946年に彼女はパーティーで階段から転落して亡くなった。1948年にスウェーデン人モデルと再婚し、養女が2人いる。

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