伝記
フィリップ・ジョン・ノエル=ベーカーは、1889年11月1日にロンドンのブロンデスベリー・パークで、フィリップ・ジョン・ベーカーとして生まれた。7人きょうだいの6番目で、父アレン・ベーカーはカナダ生まれのクエーカー教徒、母エリザベスはスコットランド生まれであった。父は1876年にイギリスに移って製造業を興し、ロンドン州議会の議員や、自由党の庶民院議員を務めた。ベーカーはクエーカー系の学校で学び、アメリカのクエーカー系のハヴァフォード・カレッジにも留学した。帰国してケンブリッジ大学キングズ・カレッジで1908年から1912年まで学び、1912年にはケンブリッジ・ユニオンの会長を務めた。1910年から1912年までは、大学の陸上競技クラブの会長でもあった。
青年時代は中距離走の選手として活躍した。1912年のストックホルム・オリンピックにはイギリス代表として800メートルと1,500メートルで出場し、1,500メートルでは決勝に進んだ。1920年のアントワープ大会では、英国陸上チームの主将を務め、旗手となった。800メートルは初戦を突破したのち1,500メートルに専念し、同じ英国のアルバート・ヒルに次ぐ銀メダルを獲得している。1924年のパリ大会でも主将を務めたが、競技には出なかった。オリンピックのメダリストでノーベル賞を受けたのは、この人物ただ一人である。
大学卒業後は国際法の奨学金を受け、1914年にはオックスフォードのラスキン・カレッジの副学長となった。第一次世界大戦では、クエーカー教徒の友人らによる救急隊をフランスの前線で組織して率い、1916年からは良心的兵役拒否者として、イタリアの英国救急隊の副官を務めた。この功績により、イギリス、フランス、イタリアから勲章を授与された。戦後は国際連盟の創設にかかわった。パリ講和会議では、ウィルソン大統領らとともに働き、連盟の初代事務総長エリック・ドラモンドの補佐を務めた。委任統治制度に関する連盟の初期の仕事の多くを担当した。1920年4月には、フリチョフ・ナンセンを説得して捕虜帰還高等弁務官を誕生させたとされる。
1924年にロンドン・スクール・オブ・エコノミクスの国際関係学の教授に就き、これは国際関係学の教授職では最も初期のものの一つであった。労働党に入って1924年に出馬したが落選し、1929年にコヴェントリー選出の庶民院議員に当選した。1931年に議席を失ったが、1932年から翌年のジュネーブ軍縮会議では、議長だったヘンダーソンを助けた。1936年7月にダービーの補欠選挙で当選し、1970年まで庶民院議員を務めて、在職は計36年に及んだ。1937年には労働党の全国執行委員会の委員となっている。1942年に戦時運輸省の政務次官となり、1945年のアトリー内閣では外務担当の国務相となって、のちに空相や英連邦関係相、燃料動力相などを歴任した。一貫して平和と軍縮の運動に携わり、1959年にノーベル平和賞を受賞した。受賞後も世界の核軍備の拡大に反対し続け、1970年にはヒロシマ会議のため来日している。1977年に一代貴族の男爵に叙せられ、貴族院議員となり、1982年10月8日に死去した。
同じ年に亡くなった人物
- ジョー・テックス (1982年没)
- Herbert Richardson (1982年没)
- カール・フォン・フリッシュ (1982年没)
- サロモン・ボホナー (1982年没)
- 田口正治 (1982年没)
同じ地域に関係する人物
- ヘンリー・ペラム (1754年没)
- フォード・マドックス・ブラウン (1893年没)
- トーマス・ラッフルズ (1826年没)
- ウィリアム・エドワード・エアトン (1908年没)
- メアリー・ボイス (2006年没)