伝記
トーマス・スタンフォード・ラッフルズは、1781年7月に生まれ、1826年7月に没したイギリスの植民地行政官である。東インド会社の職員として東南アジアで活動し、ジャワ島の統治やスマトラ島のベンクーレンでの活動に携わった。1819年にシンガポールにイギリスの拠点を築いたことから、シンガポールの創設者として知られる。また『ジャワ誌』を著すなど、東南アジアの歴史や文化の研究にも関心を寄せ、動植物の調査にも携わった。
父はベンジャミン・ラッフルズ、母はアン・リデで、1781年に、父が西インド諸島との貿易に従事する商船の船長を務めていたとき、ジャマイカ沖の船上で生まれた。1800年に父が西インド貿易から退くと、一家は困窮し、わずかな金で、ラテン語やギリシア語、フランス語、算術、簿記、地理を教える、ハマースミスの寄宿学校に通った。1795年、14歳でロンドンの東インド会社に事務員として勤め始めた。1804年、23歳のときに、10歳年上の寡婦オリヴィア・デヴェニッシュと結婚した。1805年、当時プリンス・オブ・ウェールズ島と呼ばれたマレー半島のペナン島に赴任し、書記官補として働いて、マレー語を習得した。ここでトーマス・オトー・トラヴァースと知り合い、彼とは以後約20年、行動をともにした。語学力と才気でインド総督ミントー卿の信頼を得て、マラッカに派遣された。
1811年、ナポレオン戦争でオランダがフランスに併合されたのを機に、フランスの勢力下にあったジャワ島へ、イギリス領インドから遠征軍が派遣され、彼もこれに加わった。ジャワ島の戦いは45日で終わり、その間に彼はミントー卿からジャワの副総督(準知事)に任命された。ボゴールに居を定め、少数のイギリス人の幕僚のほか、多くのオランダ人官吏を統治機構に残した。副総督は準知事であり、「副総督」と訳すのは誤訳とする説もある。この時期にジャワ島の密林に眠るボロブドゥール遺跡を再発見し、鎖国中の日本とも接触を図ったが、失敗に終わった(シャーロット号事件)。1816年にジャワ島がオランダに返還されると、帰国した。1817年に『ジャワ誌』を刊行し、同年にナイトの称号を授与された。以降、「トーマス」の名をやめ、ミドルネームの「スタンフォード」を好むようになった。
1818年、スマトラにあったイギリス東インド会社の植民地ベンクーレンの副総督(準知事)として赴任した。シンガポールの地政学上の重要性に着目し、ジョホール王国の内紛に乗じて獲得した。1819年1月28日にシンガポールに上陸し、テメンゴンのアブドゥル・ラーマンと会見して、同島の開港は2月6日のことだった。この獲得は、当初イギリス政府に支持されず、イギリスとオランダの緊張を招いた。ラッフルズは1820年に自由貿易港を宣言し、1822年から1823年までシンガポールに留まり、植民地の建設に携わった。日々の運営は、初代の駐在官を務めたウィリアム・ファーカーが担う部分が大きかったという。1824年にイギリスに帰国し、1826年にロンドンで死去した。世界最大級の花ラフレシアは、調査隊の隊長だったラッフルズの名にちなんで命名された。
同じ年に亡くなった人物
- ジョン・ファレイ (1826年没)
- ゲオルク・フランツ・ホフマン (1826年没)
- ジャン・ラフィット (1826年没)
- トーマス・ジェファーソン (1826年没)
- フランソワ=ジョゼフ・タルマ (1826年没)
同じ地域に関係する人物
- ジョン・バイロン (1786年没)
- ジョン・ジェラード (1612年没)
- イングリッド・バーグマン (1982年没)
- イアン・リチャードソン (2007年没)
- ヤッシャ・ホーレンシュタイン (1973年没)