伝記
ロミー・シュナイダーは、1938年9月23日、オーストリアのウィーンに生まれた女優である。祖母も父ヴォルフ・アルバッハ=レッティも舞台や映画で活躍した俳優で、母マグダ・シュナイダーはドイツのアウクスブルクの出身だった。両親は1933年に映画で初共演して人気の組となり、1937年に結婚した。翌年に生まれた彼女は、本名をローゼマリーといい、撮影や舞台で不在がちな両親に代わり、母方の祖父母にバイエルン州ベルヒテスガーデン近くの屋敷で育てられた。ヒトラーの山荘にほど近い場所である。5歳の1943年に父に愛人ができ、両親は1945年に離婚した。母がナチス寄りの姿勢をとっていたことも理由の一つだったらしい。小学校を出ると、ザルツブルク近くのカトリック系の女子寄宿学校に進み、お転婆で自立心が強く、問題児扱いされたが、学校劇で才能を発揮して、早くから女優を志した。
1953年に寄宿学校を卒業すると、母の主演映画への出演が持ち上がり、カメラテストに合格して、娘役でデビューした。翌1954年、オーストリア皇后エリーザベトを演じた『プリンセス・シシー』が大ヒットし、全ヨーロッパで2500万人を動員した。16歳にして一躍トップスターとなったが、「お粥みたいにくっついて離れない」シシーのレッテルは、生涯彼女を苦しめた。母と継父は1956年、1957年と続編にも出演させ、4作目の出演も強要しようとしたが、20歳の彼女は、100万マルクのギャラを積まれても首を縦に振らなかった。「私はシシーなんかじゃない。分かっていたのは私だけ」と語っている。
1958年、母の出世作のリメイク『恋ひとすじに』で、無名のアラン・ドロンと共演した。互いの第一印象は極めて悪かったが、撮影の間に二人の恋は本物となり、翌1959年に彼女はパリのドロンのもとへ出奔した。ドイツと家族を捨てたと見られ、ドイツのマスコミには裏切り者扱いされて、その確執は死まで解けなかった。1960年秋、ドロンの紹介でルキノ・ヴィスコンティ監督と出会い、パリの大劇場で初舞台を踏んだ。初歩のフランス語しか話せなかったが、昼夜を徹した猛特訓とヴィスコンティの厳しい演出に耐え、演技は高く評価された。続く『ボッカチオ'70』、オーソン・ウェルズ共演の映画で、ドイツ時代と対照的な官能的な役を演じ、ハリウッドにも進出して、『枢機卿』ではゴールデングローブ賞の主演女優賞候補となった。しかしドロンとは忙しさからすれ違い、1964年に別れた。
1966年、舞台演出家のハリー・マイエンと結婚し、12月に息子ダーヴィトを出産した。2年近く映画から離れたが、1968年にドロンが相手役に指名した『太陽が知っている』で復帰し、クロード・ソーテ監督と組んだ作品で、フランスを代表する女優となった。1972年、ヴィスコンティの『ルートヴィヒ』で、再び皇后エリーザベトを演じ、その美しさと演技は絶賛された。1974年の映画で、第1回セザール賞の主演女優賞を獲得した。私生活では、マイエンと別れ、2度の結婚はいずれも離婚に終わり、14歳の息子を事故で亡くすなど不幸が続いた。1982年5月29日、心不全で亡くなった。
同じ年に亡くなった人物
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