伝記
アン・ブーリンは、イングランド王ヘンリー8世の2番目の王妃で、エリザベス1世の生母である。生年には諸説があり、1501年ごろとするのが有力だが、1500年か1501年とする説や1509年とする説もある。父は駐仏大使を務め、のちにウィルトシャー伯とオーモンド伯となったトマス・ブーリン、母は第2代ノーフォーク公トマス・ハワードの娘エリザベス・ハワードである。曾祖父ジェフリーはノーフォークの農家の出で、絹織物工の見習いとして上京し、財産を築いてロンドン市長にまで上り詰めた。その息子ウィリアムは、リチャード3世から「サー」の称号を授かった。ブーリン家は伯爵家と縁組を重ね、娘を国王に差し出すなどして爵位や領地を増やし、わずか4代前まで平民だったとされる。
アンは幼いころ、メヘレンのマルグリット・ドートリッシュの私設学校で教育を受け、その後フランス宮廷に戻った。1526年ごろに帰国して、ヘンリー8世の最初の王妃キャサリン・オブ・アラゴンの侍女となった。詩人のトマス・ワイアットらとの恋も語られるが、根拠がないとする歴史家もいる。同時代のフランス側の記録には、魅力に乏しく、国王の贔屓という以外に特徴がない女性と酷評されたが、黒髪、色黒、小柄でやせ形という容姿は、当時の美女の基準ではなかったようである。姉妹のメアリーは、アンが王妃になる以前にヘンリー8世の愛人だったという。やがてアンも国王の愛人になるよう求められた。
王には王女メアリーしか子がなく、男子の後継者を切望していた。アンが強硬に王妃の座を求め、さもなければ肉体関係を拒むと宣言したため、ヘンリー8世は教皇クレメンス7世にキャサリンとの結婚の無効を求めることになった。キャサリンがもとはヘンリーの兄アーサーの妻だったことは無効の理由になり得たが、教皇ユリウス2世の特免を得ていて合法とされ、キャサリンの甥のカール5世も反対し、国内でもキャサリンは人気が高かった。ヘンリーは激怒して教皇庁と断絶し、イングランド国教会の原型ができた。国王至上法で国王が宗教上も政治上も最高指導者だと宣言され、これに反対したトマス・モアは処刑された。1533年5月23日にキャサリンとの結婚の無効が宣言され、6月1日にアンの戴冠式が行われた。9月にエリザベスを産んだが、王は王女の誕生に落胆し、アンは贅沢を好んで浪費し、侍女のジェーン・シーモアに王の心が移った。
1536年1月、キャサリンが死ぬと、アンと王は祝宴を開いて踊ったと大使は報告し、人々は毒殺を疑った。その後アンは流産し、王の寵愛は離れた。5月1日、国王暗殺の容疑と不義密通で反逆罪に問われ、実の兄弟ジョージ・ブーリンを含む5人の男性と姦通したとされた。5月19日、反逆、姦通、近親相姦、魔術の罪で死刑判決を受け、ロンドン塔で斬首された。フランスのリールから死刑執行人が呼ばれたと伝えられる。アンは斧での執行を嫌ったという。王妃であった期間は約1000日で、作曲をよくしたが、死刑宣告後に残した書類は全て処分された。当時のプロテスタントは英語で聖書を読むことを重んじ、アンも王妃時代に宮廷に英語の聖書を置いていた。プロテスタントの地下出版を公の立場で支援したことが、反逆罪と姦通罪につながったとする説もある。
同じ年に亡くなった人物
- Garcia de Resende (1536年)
- Johannes Secundus (1536年)
- ジョン・ステュアート (1536年)
- ヘクター・ボイス (1536年没)
- ゴンサロ・ゲレーロ (1536年)
同じ地域に関係する人物
- エリザベス・オブ・ヨーク (1503年没)
- ジョン・ボーフォート (初代サマセット伯) (1410年没)
- Katherine Tudor (1503年没)
- ヘンリー6世 (イングランド王) (1471年没)
- メアリー・アン・ニコルズ (1888年没)