伝記
ジョン・ボーフォートは、1371年ごろか1373年ごろに生まれた、初代サマセット伯である。エドワード3世の息子ランカスター公ジョン・オブ・ゴーントと、その愛人でのちに妻となったキャサリン・スウィンフォードの間に生まれた、4人兄弟の最初の子であった。弟にヘンリー・ボーフォート枢機卿とエクセター公トマス、妹にウェストモーランド伯ラルフ・ネヴィルの妃ジョウンがいる。ランカスター朝を開いたヘンリー4世は異母兄にあたる。王族でありながら庶子だったため、父のフランスの城ボーフォールにちなんでボーフォートの姓を名のった。城の所在はアンジューとも、シャンパーニュともいわれ、彼の出生地もそこだったとされる。
1390年の5月から9月にかけて、ブルボン公ルイ2世が率いるバルバリア十字軍に加わり、北アフリカで戦った。1394年には、リトアニアでドイツ騎士団とともに働いていた。同じ1390年に、父は従兄のリチャード2世に働きかけて、ボーフォートの兄弟が私生児ではなく合法的な子であると宣言させたが、後々の内紛を避けるため、兄弟とその子孫には王位継承権を持たないというただし書きが付けられた。この宣言は公式記録に残らない私的なものだったらしい。1396年9月には教皇ボニファティウス9世も、この子らを嫡出と認め、父母は1396年か1397年に結婚した。1397年1月には、同様の内容と条件の宣言が議会の形であらためて公表された。
議会の宣言から数日後、1397年2月10日に、ジョンはサマセット伯に叙せられた。同じ月に、アイルランド艦隊の提督、ドーヴァー城の守備官、五港長官に任じられ、5月には提督の職が北の艦隊まで広がった。その夏、彼は、リチャード2世が訴追派貴族の力から逃れるのを助けた貴族のひとりとなった。9月には、リチャード2世の異父兄である第2代ケント伯トマス・ホランドの娘マーガレットと結婚した。その前後にサマセット侯とドーセット侯に叙せられ、ガーター勲章を受け、アキテーヌ副総督にも任じられた。1398年に異母兄のヘンリー・ボリングブルックが国外追放になっても、王の寵を失わなかった。
1399年にヘンリー・ボリングブルックがリチャード2世を廃してヘンリー4世となると、新王は訴追派貴族に対抗した者たちの爵位を取り消し、ジョンはふたたびサマセット伯となった。それでも異母兄の治世には忠実で、軍の指揮や外交の使節を務めた。1400年には、ウェールズの反乱指導者オワイン・グリンドゥールから没収した所領を与えられた。1404年にはイングランド武官長に任じられた。1407年には、ヘンリー4世もまた、ボーフォート家の子孫に王位継承権がないことを確認している。ジョンは1410年3月16日にロンドンの聖キャサリン病院で死に、カンタベリー大聖堂の聖マイケル礼拝堂に葬られた。マーガレットとの間には6人の子がおり、孫娘マーガレット・ボーフォートからは、曾孫のヘンリー7世が出た。
同じ年に亡くなった人物
- ヤワル・ワカ (1410年)
- フェオファン・グレク (1410年没)
- バルトロ・ディ・フレーディ (1410年)
- ウルリッヒ・フォン・ユンギンゲン (1410年)
- エーリヒ4世 (ザクセン=ラウエンブルク公) (1410年代没)
同じ地域に関係する人物
- エリザベス・ストライド (1888年没)
- ヘンリー6世 (イングランド王) (1471年没)
- メアリー・アン・ニコルズ (1888年没)
- キャサリン・ハワード (1542年没)
- トマス・モア (1535年没)