HISTORICAL PERSON · 1981年没

ジョルジュ・ブラッサンス

フランスのシンガーソングライター・詩人。ギター中心の少人数編成で、風刺の効いた歌詞を歌った。国民的人気を誇り、ゲンズブールらにも影響を与えた。

生涯
1981年没
死亡地
フランス共和国(エロー県 / Saint-Gely-du-Fesc)
出生地
フランス共和国(セット)
出典
世界地図
フランス共和国(エロー県)

伝記

ジョルジュ・ブラッサンスは、1921年10月22日にフランス南部エロー県のセットで生まれたシンガーソングライターで、詩人でもある。フランス人の父ジャン=ルイと、南イタリアのポテンツァ県出身のイタリア人の母エルヴィラ・ダグローザの間に生まれた。セットでは、両親と、第一次世界大戦で死んだ母の最初の夫との子である異父姉シモーヌ、父方の祖父ジュールとともに暮らした。音楽を愛した母を、本人は「歌の伝道師」と呼んでいる。

第二次世界大戦中の1943年3月、ドイツの強制労働組織に徴用され、ベルリン近郊の航空機エンジン工場内にある労働収容所に送られた。時間を見つけては百を超える曲を書いたが、完成させる前に焼き捨てたり、頻繁に直したりした。最初の小説の冒頭部分も、ここで書いている。「岩のようにどっしりしている」ことから「ジブラルタル」とあだ名したピエール・オンテニエンテら、のちに親友となる人々と出会ったのもこの収容所である。オンテニエンテは、のちに右腕として個人秘書も務めた。1年後に10日間の一時帰休が認められたとき、彼が収容所に戻らないことは友人たちにも明白だった。パリで隠れ家を探すと、ジャンヌ・プランシュが、必要なだけ滞在していいと申し出た。ジャンヌは夫のマルセルとともに、パリ14区のフロリモン通りで、ガスも水道も電気もない掘っ立て小屋に住んでいた。ブラッサンスはその家に隠れ、終戦までの5か月はもとより、結局22年間も住みつくことになった。彼女は「ジャンヌ」という歌の着想の源にもなった。

終戦後は、収容所からの友人たちと、アナーキスト志向の新聞『悪党の叫び』の創刊を目論んだが、資金不足で初版だけで終わった。のちにアナーキスト連盟の機関紙に、ブラックユーモアに富んだ記事を書いたものの、無節制が誰の好みにも合わず、遺恨なしに連盟を離れた。「アナーキストとは、警官と議論するのが嫌で横断歩道を几帳面に渡る人のことだ」と語ったと伝わる。友人たちは曲をキャバレーやカフェで試すよう勧めたが、内気で人前で演奏するのは苦手だった。しかしある有名なカフェで歌手と出会い、その歌手が彼を音楽の世界に引き入れた。ジャック・ブレルやレオ・フェレなども、こうして紹介された歌手である。のちにオランピアなどのミュージックホールにも出演した。

1952年から1976年にかけて、14枚のアルバムを録音した。ギターの弾き語りを基本とし、多くの場合は友人がダブルベースで伴奏した。歌は、保守的な社会、とくに宗教家や富裕層、法執行機関の偽善を、間接的な形で批判したものが多い。華やかな言葉の使い方とブラックユーモアで、陰惨な歌詞でさえ陽気な雰囲気を帯びた。1952年以降はほとんどフランスを離れず、1961年にカナダに1か月、北アフリカに1か月滞在したほか、1970年と1973年にウェールズで演奏した。1967年にアカデミー・フランセーズの詩大賞を受けている。ルイ・アラゴン、ヴィクトル・ユーゴー、ヴェルレーヌ、ヴィヨンらの詩にも曲をつけた。1957年の映画『リラの門』では、準主役の楽士を演じている。1981年10月29日に死去した。戦後フランスで最高の詩人の一人とも見なされ、没後数十年を経ても歌い継がれている。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物