HISTORICAL PERSON · 1331年没

ベルナール・ギー

フランスの修道士、異端審問官。『異端審問の実務』の著者として知られ、生涯637件の審問中に火刑としたのは40人にとどまり拷問にも否定的だった。

生涯
1331年没
死亡地
フランス共和国(エロー県 / Lauroux)
出生地
フランス共和国(Royeres)
出典
世界地図
フランス共和国(エロー県)

伝記

ベルナール・ギーは、フランス出身のドミニコ会修道士であり、異端審問官、のちにロデーヴの司教となった人物である。1261年か1262年に、フランス中南部リムーザン地方、現在のオート=ヴィエンヌ県で生まれたが、正確な年は分かっていない。十三、四歳のころにドミニコ会の修道院に入り、1280年に迎え入れられて、十八歳で修道誓願を立てた。その後はモンペリエなど南フランスの修道院で文法、論理学、哲学、神学を学び、南フランスの各地の僧院で神学の助教を務めた。1294年にアルビの僧院で神学を教えるようになり、翌1295年にその院長となった。1307年までにカルカッソンヌ、カストル、リモージュの院長を歴任している。アルビとカルカッソンヌでは反異端審問と反ドミニコ会の動きがあり、ギーは自著の中で、これを人生で最も苦しい時期だったと書いた。この間に僧団の歴史をまとめた本を著し、ドミニコ会の僧長に献呈している。

1307年、ギーは異端審問官に任命され、1308年3月に最初の審問を行った。活動の場は、カタリ派などの異端が根強く残っていた南フランスのラングドック地方である。各地を巡って説教し、自発的に告白した者には軽い償いを課し、告発された者は尋問した。刑罰には巡礼や十字架の着用、財産の没収などがあり、悔い改めない者や再び異端に戻った者は世俗の権力に引き渡され、多くは火刑となった。1316年から1320年にかけては、アヴィニョンの教皇庁でドミニコ会の総代理人を務め、教皇の使節としてイタリアやフランドルにも赴いたが、和平の仲介はいずれも成功しなかった。1323年6月に最後の判決を出して審問官の任を終え、このころ『異端審問の実務』を書いた。『トゥールーズ判決集』によれば、ギーが判決を下した相手は生涯で907人にのぼる。火刑に処された者はおよそ四十人にとどまり、ギーは著書の中で拷問の適用の中止を書き、十数年前に拷問による自白で下した自分の判決を、自ら無効と申し出てもいる。

審問官を退いたギーは、1323年にトゥイの司教に叙任されたが、実際にはアヴィニョンの教皇庁に勤め、自著をヨハネス22世に献呈した。1324年7月にロデーヴの司教へ転任を命じられ、10月に着任した。ロデーヴは異端とされたベガン派への弾圧などで教会の統制が緩み、荒廃していた。着任するとすぐに司教区を視察して回り、市民が求めた執政制を退けた。翌1325年には司教区会議で聖職者の規則を細かく定め、3月24日にはサン・ジュニエス墓地に14歳以上の男子940人を集めて服従を誓わせた。のちには、昔の特許文書を理由に司教区内の国王課税の中止をフィリップ6世に訴えて成功している。この間に全五巻の『ロデーヴ教会文書集』をまとめ。一方で、ハンセン病患者の迫害に加担して無実の罪で彼らの財産を差し押さえたこともあり、のちに国王の命令で復権と財産の回復が命じられた。

ギーは1331年12月30日、ロデーヴ司教のまま司教の居館であるロールー城で死去した。ロデーヴの大聖堂で葬儀が行われたのち、遺体はリモージュのドミニコ会修道院に葬られたが、墓は16世紀末の宗教戦争のなかで荒らされた。甥のピエール・ギーが書いたと考えられる略伝には、死の前日にリモージュの会堂に不思議な光が現れ、大祭壇で消えたと記されているが、かなりの誇張を含むといわれる。ギーは記録の収集と編集を生涯の仕事とし、15冊の本を著した。ウンベルト・エーコの小説『薔薇の名前』とその映画化では、異端者をすぐ火刑や拷問にかける冷酷な人物として描かれている。

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