伝記
モハンマド・レザー・シャー・パフラヴィーは、1919年10月26日、ガージャール朝の軍人レザー・ハーンの長子として、双子の妹アシュラフとともにテヘランに生まれた。1925年に父がレザー・シャーとして即位してパフラヴィー朝を開くと、皇太子となった。上流階級の子弟が通うスイスの私立寄宿学校ル・ロゼに留学し、後のアメリカ中央情報局長官リチャード・ヘルムズら同級生からも信頼され、多くの友人を作った。1939年にはエジプト国王フアード1世の長女ファウズィーヤと結婚したが、のちに不和となり、1948年に離婚した。
第二次世界大戦中のイランは、アーリア人優越の学説の影響で、在住ドイツ人の追放を拒み、連合国の鉄道使用を拒むなど、急速に枢軸国のドイツへ傾いた。1941年8月25日、イギリスとソ連は、鉄道を含む補給路と石油などの資源を確保するために、イランへ侵攻した。レザー・シャーは、アメリカのルーズベルト大統領に仲介を求めたが拒まれ、9月17日にイラン軍は制圧された。両国の圧力を受けて退位した父に代わって、モハンマド・レザーが皇帝に即位した。在位は1941年9月26日から1979年2月11日までで、パフラヴィー朝の第2代にして最後の皇帝となる。
1951年にはソラヤー・エスファンディヤーリー・バフティヤーリーと再婚したが、不妊が分かり、帝位継承の安定のため、1958年にやむなく離婚した。翌1959年には、イラン軍人の一人娘と結婚した。内政では、石油の国有化を進めてソ連に接近したモサッデク首相と対立した。1953年、イギリスとアメリカの情報機関の支援を受けた皇帝派のザーヘディー将軍らによるクーデターで首相が失脚し、権力を回復した。1958年には国賓として来日し、日本の飛躍的な経済成長に注目した。1963年から、石油の輸出で得た資本とアメリカの援助を元手に、土地改革、国営企業の民営化、婦人参政権の確立、教育の振興などを進める「白色革命」に着手した。女性解放を掲げてヒジャブの着用を禁止するなど世俗化も進めたが、ホメイニーらイスラム法学者の反発を招いた。ホメイニーは国外に追放され、最終的にパリへ亡命したが、その後もイラン国内の反体制派に影響を与え続けた。
1971年には、古代ペルシア帝国の遺跡ペルセポリスで、イラン建国二千五百年祭典を開いた。世界各国から王族や首脳を招いたが、投じた費用は2億ドル以上ともいわれ、国費の浪費だと批判された。1970年代中盤の原油価格の動揺で近代化政策は行き詰まり、経済格差が拡大した。1975年には二大政党制を廃して一党制を敷いたが、イスラム主義者や左翼まで参加する反体制運動が激化した。戒厳令を敷いても収拾はつかず、1979年1月16日、休暇と称して自ら専用機を操縦し、エジプトへ出国した。事実上の亡命だった。2月1日にホメイニーが帰国し、2月11日に皇帝に忠誠を誓う部隊が制圧され、のちにイスラム共和制が敷かれた。癌の治療のためとしてアメリカに移ったが、これに反発した学生らが11月4日にテヘランのアメリカ大使館を占拠し、人質事件が起きた。モハンマドは12月にパナマへ向かい、のちエジプトのサダト大統領に受け入れられ、1980年7月27日にカイロで死去した。
同じ年に亡くなった人物
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- エーリヒ・ヒュッケル (1980年没)
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- ヴァラーハギリ・ヴェンカタ・ギリ (1980年没)
同じ地域に関係する人物
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