伝記
ヴァラーハギリ・ヴェンカタ・ギリは、1894年8月10日に生まれ、1980年6月24日に没したインドの政治家である。第4代大統領(在任は1969年8月24日から1974年8月24日)で、ウッタル・プラデーシュ州知事、ケララ州知事、マイソール州知事、副大統領などを歴任した。
マドラス管区(現在のオリッサ州)のベルハンプルで、テルグ語を話すバラモンの家に生まれた。一家はアーンドラ・プラデーシュ州東ゴーダーヴァリ県の出身で、子どもたちの将来のためにベルハンプルへ移った。父はインド国民会議の弁護士であり政治活動家、母スバドランマは非協力運動と市民的不服従運動のとき、国民運動に積極的に参加して、禁酒を求めるストライキを率い、逮捕されたことがある。ギリはベルハンプルの初等学校で学んだのち、マドラス大学に属するカッリコテ・カレッジで高等教育を受け、学生自治会に3期続けて選ばれて、解放運動に熱心に参加した。
1913年、法律を学ぶためアイルランドに渡り、ダブリンの大学とキングズ・インズで学んだ。インド人学生が英国よりアイルランドを好んだのは、アイルランド人が人種差別や肌の色による偏見を示さなかったことや、ロンドンの法曹院が1912年にインド人の入学条件を厳しくしたことによるとされる。第一次世界大戦中にはダブリンからロンドンへ出向き、マハトマ・ガンディーと会った。ガンディーはギリに、赤十字の志願兵として帝国の戦争活動に加わるよう望み、ギリは一度それに応じたが、のちに自らの決断を後悔している。1916年6月にアイルランドの弁護士資格を得て、インドに戻るとマドラス高等裁判所に登録した。
国民会議とホームルール運動に加わり、1920年に非協力運動の一環として弁護士の道を捨てた。1922年には示威行動で逮捕され、労働運動と深く結びついて、1926年には全インド労働組合会議の議長に選ばれた。1934年に立法議会の議員となり、1937年にはラージャゴーパーラーチャーリ内閣の労働・産業大臣となった。1939年に国民会議派の内閣が総辞職すると労働運動に戻り、のちに逮捕されて、1941年まで15か月を獄中で過ごした。1942年に「インドを立ち去れ」運動が始まったあとも逮捕され、1945年まで3年間投獄された。1946年の総選挙でマドラス州議会議員に選ばれ、再び労働大臣を務めた。1947年から1951年には、セイロンの初代インド高等弁務官を務めている。
1951年に下院議員に当選し、1952年から1954年まで、ネルー政権の労働大臣を務めて辞職した。1957年の選挙で敗れ、同年ウッタル・プラデーシュ州知事に任命された。続いてケララ州知事を1960年から1965年まで、マイソール州知事を1965年から1967年まで務め、1967年の選挙で副大統領に選ばれた。ザキール・フセイン大統領の死後、1969年5月に大統領代行となったが、7月に辞して無所属で大統領選挙に出馬する。1969年8月16日の選挙に当選したが、有権者に影響を与えるため汚職行為を行ったとして、最高裁判所に選挙請願が出された。現職の大統領としては異例なことに、自ら法廷に出て証人尋問を受け、裁判所は請願を却下して、ギリの選出を支持した。1974年にインディラ・ガンディーは再指名しなかった。退任後の1975年、バーラト・ラトナを贈られた。1980年6月24日、マドラスの滞在先で心臓発作により死去した。
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