伝記
マリー・ウンテルは、1883年3月27日にレーヴェリ(現在のエストニアのタリン)に生まれ、1980年9月25日に没したエストニアの詩人である。ノーベル文学賞の候補に、15の異なる年に計16回挙げられた。両親はともに学校教師で、幼い頃から読書に親しみ、13歳で詩作を始めた。
タリンの私立のドイツ人女学校に通い、ゲーテやシラーなどのドイツ文学を耽読して、ドイツ語で詩を書いた。学校を出てからは保育師として働き、書店員を経て新聞社に勤めた。このころに多くの芸術家や詩人と出会ったという。1902年にエストニア人の会計士カール・ハッカーと結婚し、モスクワ郊外のクチノで二人の子供に恵まれたが、1904年にエストニア人の画家アンツ・ライクマーと恋仲になった。ライクマーはエストニア語で書くよう勧め、以後はエストニア語を中心に詩作するようになった。1904年には筆名ムッティの名で、新聞『ポスティーム』にエストニア語の詩が初めて掲載された。1906年にタリンへ戻り、1913年にアルトゥル・アドソンと出会う。アドソンは文芸の良き助言者となり、1924年にハッカーと離婚してアドソンと再婚した。
1917年5月には、表現主義的で新ロマン主義の文学グループ「シウル」の結成に関わった。グループで唯一の女性であり、会長に任じられた。同年、アドソンの協力で最初の詩集『ソネット』を刊行して高く評価された。大胆な官能的な詩が注目を集め、のちの書き手にも影響を与えたという。自宅で文学サロンを開いて多くの文化人を集め、1922年にはエストニア作家同盟の創設にも参画した。1920年代には、ロシアの詩人イーゴリ・セヴェリャーニンが暮らすトイラの村をしばしば休暇で訪れた。セヴェリャーニンはエストニア語を解さず、逐語訳を基にして、彼女の詩の訳詩集を出している。ドイツ表現主義詩の生き生きとした表現から大きな影響を受け、1927年に表現主義的な詩集『影の声』、1928年に自然を謳った抒情詩集『美しい日の歓び』、1935年に人生の光と影を描いた詩集『こころの石』を発表した。いずれも代表作とされる。詩風は、初期の感覚的な主題から、1920年ごろには孤立や死といった存在をめぐる主題へ移り、1920年代末には生への関心と気遣いへ変わっていった。1937年には国際ペンクラブの会員に選ばれた。
第二次世界大戦が始まると、ドイツ占領下の1942年に詩集『不安げな口』を刊行した。ソ連軍がエストニアを占領すると、1944年にスウェーデンへ亡命し、約1年を難民キャンプで過ごしたあと、1945年にストックホルム南西の郊外マーラルヘイデンに移った。作品はソ連で発禁となったが、1954年に亡命後初の詩集『灰まみれの火花』、1963年に望郷を謳った詩集『辺塞』を刊行した。作品は少なくとも26の言語に訳されている。
1980年にストックホルムで死去し、郊外の墓地スコーグスシュルコゴーデンに葬られた。1981年に遺作の詩集『心の歌』が刊行された。のちに書簡や日記などの資料はエストニアに移されて保存され、2016年6月9日には、ウンテルとアドソンの遺骨がタリンのラフマエ墓地に改葬された。
同じ年に亡くなった人物
- アレクサンドリーネ・フォン・プロイセン (1915-1980) (1980年没)
- ソニア・ヴィーゲット (1980年没)
- マンリオ・ブロジオ (1980年没)
- ミリザ・コルジャス (1980年没)
- マリン・プレダ (1980年没)
同じ地域に関係する人物
- エリザベート・ゼーダーシュトレーム (2009年没)
- ハンス・アクセル・フォン・フェルセン (1810年没)
- Artur Adson (1977年没)
- ビビ・アンデショーン (2019年没)
- Lars Werner (2013年没)