HISTORICAL PERSON · 1980年没

セレツェ・カーマ

ボツワナ共和国の初代大統領。4歳でングワト王となり、政治経済に優れた手腕を発揮して、現在のボツワナの繁栄の礎を築いた。

生涯
1980年没
死亡地
ボツワナ共和国(ハボローネ)
出生地
ボツワナ共和国(セロウェ)
出典
世界地図
ボツワナ共和国(ハボローネ)

伝記

セレツェ・カーマは、1921年7月1日にセロウェで生まれ、1980年7月13日にハボローネで没した、ボツワナ共和国の初代大統領である。在任は1966年から1980年。政治と経済に優れた手腕を発揮し、現在のボツワナの繁栄の礎を築いたと評される。

英領ベチュアナランドに住むツワナ人の有力部族、ングワト族の王の長男として生まれた。祖父は先代のングワト王である。1925年に父が亡くなり、4歳でングワト王となって、叔父のツェケディが摂政をつとめた。母テボホは近隣の一族の王女で、1930年に没している。南アフリカの寄宿学校に通ったのち、フォートヘア大学で1944年に文学士号を取り、オックスフォード大学へ留学した。

1947年ごろ、ロイズの行員だったイギリス人女性ルース・ウィリアムズと出会い、1948年9月29日に結婚した。この結婚は、アパルトヘイトを行っていた南アフリカ連邦を強く刺激した。ングワト族の長老たちも、王の結婚相手は一族から選ばれ、長老の許可を得るのが慣習だったため、事前の相談もなく決められたことに難色を示した。夫妻はセロウェで、伝統的な民会であるコトラに出席した。出席者は3500人から1万人に及び、1週間にわたって開かれ、カーマのスピーチを受けて、結論は彼の勝利に終わった。しかし南アフリカ連邦は反対し続け、宗主国イギリスに王位の放棄を迫った。当時のイギリスは戦後の窮乏期で、南アフリカの資源を必要としており、議会はカーマに王位の放棄を求め、それが認められるまで帰国を認めなかった。この間に、長女ジャックリーンと、のちに第4代大統領となる息子イアン・カーマも生まれた。1956年、対立していた叔父ツェケディの説得で王位の放棄を決心し、二人は共同の会見で和解を発表した。イギリス政府はこれを認め、夫妻は一市民としてベチュアナランドに戻った。

1960年代初めにクェット・マシーレらとベチュアナランド民主党(現在のボツワナ民主党)を結成し、独立運動を始めた。穏健な政策は共感を呼び、支持が拡大して全国的な政党となる。1965年の議会選挙で圧勝し、首相に就き、1966年9月30日にボツワナが独立すると初代大統領に就任した。当時のボツワナにはこれといった産業がなく、世界最貧国の20か国に数えられ、政府の経費さえイギリスの援助に頼っていた。ところが独立の翌年の1967年、中部のオラパで世界最大級のダイヤモンド鉱脈が発見される。カーマはすぐに南アフリカのデ・ビアス社と開発契約を結び、得られた収益は初等教育や医療、基盤整備に優先的に振り向けられた。1967年から1980年まで、ボツワナ経済は世界最速の成長を記録し続けた。汚職への強力な対策により、新独立国のなかで政府の腐敗がもっとも少ない国になった。人種間の融和を重んじ、政府職員の「アフリカ化」を急がなかったため、行政能力は低下しなかった。

外交では周囲の白人諸国と距離を保ち、アパルトヘイトには反対したが、立場は穏健だった。1979年に南部アフリカ諸国の自立を目指す共同体の構想を提案し、1980年に発足した。複数政党制の民主主義を堅持して、一度も独裁に傾かなかった。長く糖尿病を患い、1974年に心臓ペースメーカーの手術を受け、1980年7月13日に膵癌のため、妻ルースの腕の中で59歳で世を去った。副大統領のクェット・マシーレが政権を継いだ。遺体の一般公開には4000人を超える人々が参列し、生まれ故郷のセロウェに埋葬された。

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