HISTORICAL PERSON · 1980年没

オスカー・ココシュカ

オーストリアの画家・劇作家。クリムトやシーレと並ぶ近代オーストリアの代表的画家で、どの芸術運動にも属さず独自の道を歩んだ。

生涯
1980年没
死亡地
スイス連邦(ヴォー州 / モントルー)
出生地
オーストリア共和国(ペヒラルン)
出典
世界地図
スイス連邦(ヴォー州)

伝記

オスカー・ココシュカは、1886年3月1日に生まれ、1980年2月22日に没したオーストリアの画家・劇作家である。クリムトやシーレと並び、近代オーストリアを代表する画家の一人とされる。表現主義に分類されることが多いが、ウィーン分離派や「青騎士」、「ブリュッケ」などの運動やグループには加わらず、終始独自の道を歩んだ。

金細工師の父グスタフ・ヨーゼフと、母マリア・ロマーナの第2子としてペッヒラルンに生まれた。妹ベルタと弟ボフスラフがいる。父の経済的な不安定さから、一家は次第に小さな住まいへ移り続け、暮らしは楽ではなかった。父を頼りないと感じた彼は母に寄り添い、自らを家長とみなして、収入を得られるようになると家族を支え続けた。1897年に実科学校に入ったが、化学の勉強を続ける気はなく、優れていたのは美術だけで、授業中は古典文学を読んで過ごした。教師が彼の素描に感心して美術の道を勧め、父の意に反してウィーンの工芸学校を受験した。奨学金を得て、数少ない合格者の一人となり、1904年から1909年まで学んだ。教師のカール・オットー・チェシュカの影響を受けながら独自の様式を築いている。絵画の正式な訓練は受けておらず、「正しい」描き方にとらわれずに取り組んだ。

20歳代には、建築家ヨーゼフ・ホフマンらのウィーン工房に参加して、装飾美術の仕事をした。最初の仕事は絵葉書や子ども向けの絵で、のちに彼はこれが「芸術的な訓練の基礎」になったと語っている。挿絵入りの詩集も発表し、当初は画家というより、詩人、装飾美術家として知られていた。初期の肖像は、ウィーンの著名人を神経質に躍動する筆致で描くものだった。1910年、表現主義の雑誌『シュトルム』の発行人で、同名の画廊も経営していたヘルヴァルト・ヴァルデンに招かれてベルリンに滞在し、同誌の同人になった。同じ年に描かれた『ヴァルデンの肖像』は、真横を向いて立つ人物を描いた風変わりな肖像で、代表作の一つとされる。

ウィーンでは評価されないどころか反感を買い、1911年には皇位継承者のフランツ・フェルディナント大公が「あいつをぶちのめしてやりたい」と言ったという。そのころ、作曲家グスタフ・マーラーの未亡人アルマ・マーラーと恋愛関係にあり、1913年には二人でイタリアを旅行した。代表作の『風の花嫁』は、アルマとともにいる画家自身を描いたものである。第一次世界大戦に従軍して頭部に傷を負い、1915年にアルマが建築家ヴァルター・グロピウスと結婚すると、関係はあっけなく終わった。アルマと等身大の人形を作り、馬車で外出するときにも連れていったという逸話がある。1922年に酔った勢いで人形の頭を割り、その異常な関係もようやく終わったという。

1917年から1924年までドイツのドレスデンに滞在し、1920年にドレスデン美術大学の教授になった。ナチス政権下の1933年にプラハへ逃れ、第二次世界大戦の前後はロンドンで過ごすなど、コスモポリタン的な生活を続けた。戦後はスイスに定住し、毎年、ザルツブルクで美術セミナーの講師を務めて後進を育てた。1960年にエラスムス賞を受賞し、1980年、スイスのモントルーで没した。

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