HISTORICAL PERSON · 1980年没

タマラ・ド・レンピッカ

ワルシャワ生まれで、アール・デコを代表する画家。裕福な家庭に育ち、少女期にイタリアの巨匠たちの絵画に触れた。

生涯
1980年没
死亡地
メキシコ合衆国(モレロス州 / クエルナバカ)
出生地
ポーランド共和国(ワルシャワ)
出典
世界地図
メキシコ合衆国(モレロス州)

伝記

タマラ・ド・レンピッカは、ロシア帝国支配下のワルシャワに生まれ、1980年3月に没したアール・デコの画家である。生年は1898年とされるが、1895年説や1897年説もあり、誕生日は5月16日とされる。タマラは本名ではなく、マリア・グルスカが出生名だったとする説もある。

父はポーランド人の弁護士ボリス・グルスキ、母マルヴィナは上流階級の出身で、裕福な家庭に育ち、兄と妹がいた。スイスのローザンヌの全寮制学校で学んでいた1911年の冬、祖母とともにイタリアとコート・ダジュールを旅行し、そこでイタリアの巨匠たちの絵画に間近に接した。1912年に両親が離婚すると、裕福な叔母のいるサンクトペテルブルクに移った。1913年、15歳のときにオペラ観劇で見初めた美しい男性に恋をし、1916年にその男性、ポーランド人弁護士のタデウシュ・ウェンピツキと結婚した。持参金が目当てだったとも言われるが、当時、彼が金銭的に困窮していた形跡はなく、激しい性格でプライドの高いタマラの方が、彼を獲得しようと躍起になったというのが真相のようだとされる。

1917年にロシア革命が起きると、タデウシュは12月の真夜中に秘密警察に逮捕された。銃殺の危機が迫るなか、彼女は刑務所を捜し回り、数週間後、スウェーデン領事の助けを借りて夫を釈放してもらう。夫婦はコペンハーゲン、ロンドンを転々とし、最後は多くの白系ロシア人が逃れたパリに落ち着いた。持ってきた宝石を売って暮らしたが、フランスでは弁護士として働けない夫に、他の職を探す気がなく、生活は次第に不安になった。1919年に娘キゼットが生まれ、家計を立て直すため、彼女は画家になる決意をする。グランド・ショミエール芸術学校に入り、モーリス・ドニ、アンドレ・ロートについて学んだ。持って生まれた才能に、成功しなければという強い意志が加わり、短期間で驚くほど上達して、1923年には主要なサロンに作品を出品するまでになった。

1925年、エマニュエル・カステルバルコ伯爵の後援により、最初の個展がミラノで催される。半年で新たに28作を描き上げ、まもなく同時代で最もファッショナブルな肖像画家となり、公爵夫人や大公、名士たちを描いた。同じ年の自画像『緑色のブガッティに乗るタマラ』は、ドイツのファッション雑誌の表紙を飾った。1927年にはボルドー国際美術賞の金賞を受け、受賞作は『バルコニーのキゼット』だった。パブロ・ピカソやジャン・コクトー、アンドレ・ジッドとも知り合い、彼女が両性愛者であることはよく知られていた。夫はそうした生活に疲れて1927年に妻を捨て、翌1928年に離婚した。1928年にはラウル・クフナー男爵が訪れて、のちに長く彼女のパトロンとなり、1934年に二人は結婚して、彼女は「男爵夫人」になった。

1939年から夫妻はアメリカで暮らし、ビバリーヒルズに住んで、ハリウッドスターに愛される芸術家になった。1941年には、ナチ占領下のパリにいた娘をリスボン経由で救い出している。しかし、この頃には画家としての名声は失われつつあった。1962年に新作を出展したが好評は得られず、彼女は二度と作品を発表しないと決めて、プロの画家を引退した。同じ年に男爵が心臓発作で亡くなると、持ち物を売って世界一周旅行をし、のちに娘の暮らすテキサス州ヒューストンに移った。1978年にメキシコのクエルナバカへ移住し、1980年3月に亡くなった。死の前に流行は一巡しており、若い世代が彼女の芸術を再発見して、1973年の回顧展も大好評だった。

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