伝記
ジョン・ハスブルーク・ヴァン・ヴレックは、1899年3月13日にコネチカット州のミドルタウンで生まれたアメリカ合衆国の物理学者である。祖父のジョン・モンロー・ヴァン・ヴレックも父のエドワード・バー・ヴァン・ヴレックも数学の大学教授という家系に生まれた。ウィスコンシン大学マディソン校で物理学を学び、1922年にハーバード大学から博士の学位を得た。1923年にミネソタ大学の助教授となり、のちにウィスコンシン大学の教授に任じられた。そこでは、のちにノーベル賞を受けるジョン・バーディーンが学生にいた。やがてハーバード大学に落ち着き、1969年に退職するまで教授を務めた。スタンフォード大学、ミシガン大学、コロンビア大学、プリンストン大学、ライデン大学、オックスフォード大学では客員教授も務めている。1936年にはウェズリアン大学から名誉博士の称号を受けた。
研究の中心は、磁性の量子論と、金属錯体における結合の理論であった。磁性の量子力学的な理論の基礎を築き、結晶場理論や配位子場理論、すなわち金属錯体の化学結合の理論を打ち立てて、「現代磁気学の父」と呼ばれる。希土類の磁性を、いわゆるヴァン・ヴレックの常磁性によって、理論的にはじめて説明した人物でもある。この常磁性は、温度に依存せず、磁化率に正の寄与を与える現象である。ヴァン・ヴレックの変換や、量子カオスのヴァン・ヴレックの公式にも、その名が冠されている。
第二次世界大戦中には、マサチューセッツ工科大学の放射研究所でレーダーの開発に携わり、半分の時間を同研究所、残りをハーバード大学の勤務に充てた。波長約1.25センチメートルでは大気中の水分子が、0.5センチメートルでは酸素分子が、同様の吸収を起こして邪魔になることを示した。この発見は軍用や民間のレーダーに重要な意味をもち、のちには電波天文学という新しい科学にも影響したという。マンハッタン計画にも関わった。1942年6月、オッペンハイマーがカリフォルニア大学バークレー校で開いた夏の研究会に、8人の理論家の一人として出席し、原子爆弾の設計の原理を検討した。1943年にはグローヴス将軍が設けたロスアラモス研究所の審査委員会の委員となった。この委員会の重要な貢献は、リトルボーイの砲身の短縮で、余分な重量を除いて爆弾の製造を早め、のちの広島への投下につながったとされる。科学哲学者で科学史家のトーマス・クーンは、ハーバード大学でヴァン・ヴレックの指導の下に物理学の博士号を取った。
1953年には、東京と京都で開かれた国際理論物理学会に出席して来日した。1950年にオランダ王立芸術科学アカデミーの外国人会員となり、1961年から62年にはオックスフォード大学のジョージ・イーストマン客員教授としてベイリオル・カレッジに籍を置いた。1966年にアメリカ国家科学賞、1974年にローレンツ・メダルを受けた。1977年、「磁性体と無秩序系の電子構造の理論的研究」により、フィリップ・アンダーソン、ネヴィル・モットとともにノーベル物理学賞を受賞した。1980年10月27日、マサチューセッツ州ケンブリッジで死去した。81歳であった。
同じ年に亡くなった人物
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- 顧頡剛 (1980年没)
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- ラファエル・パーシオ (1980年没)
同じ地域に関係する人物
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