HISTORICAL PERSON · 1980年没

竹腰重丸

日本のサッカー選手・指導者・審判員。東京帝国大学で関東大学リーグ初制覇と東大黄金期の礎を築き、極東選手権の日本代表にも選ばれた。

生涯
1980年没
死亡地
日本(東京都 / 文京区)
出生地
日本(臼杵市)
出典
世界地図
日本(東京都)

伝記

竹腰重丸は、1906年2月15日、大分県北海部郡臼杵町(現在の臼杵市)に生まれた。サッカー選手、指導者、審判員であり、東京大学や芝浦工業大学の教授も務めた。1918年に臼杵尋常小学校を卒業し、中学生のころに大連へ転居して大連第一中学校に入った。そこでサッカーと出会った。山口高等学校から1925年に東京帝国大学へ進学し、同年、マニラで開かれた第7回極東選手権競技大会のサッカー日本代表に選ばれて、5月20日の中華民国戦に初めて出場した。1927年の上海大会では、8月29日のフィリピン戦で得点を挙げ、日本は勝った。これは日本代表が国際Aマッチで挙げた最初の勝利とされる。

翌1926年には、東大ア式蹴球部が関東大学リーグを初めて制し、その後6連覇する黄金期の礎を築いた。当初は医学部薬学科に所属していたが、実験の時間がとれずサッカーとの両立が難しいとして、農学部農業経済学科に移ったという逸話が残る。1930年の第9回極東選手権競技大会では主将として日本代表を率い、同率優勝を勝ち取った。国際Aマッチには、1930年までに5試合出場して1得点を挙げた。大学卒業後の1929年には、大日本蹴球協会(現在の日本サッカー協会)の理事に就いた。帝国農会に就職したものの、サッカーに時間を割くために退職し、1933年から東京帝大で体育講師を務めた。

1934年の第10回極東選手権では日本代表の監督を務めた。1936年のベルリンオリンピックには、選手兼コーチとして参加している。この大会で日本は強豪スウェーデンに逆転勝ちし、五輪のサッカーで初めて勝利を挙げたが、この試合はのちに「ベルリンの奇跡」と呼ばれた。1938年から1940年にも代表監督を務めた。第二次世界大戦中は海軍士官として戦地にあったが、無事に復員して東京大学に復職した。1948年に日本蹴球協会の理事長に就き、戦後の日本サッカーの復興に当たった。

1951年に再び代表監督となり、1954年のアジア競技大会などで代表を指揮した。1956年にはメルボルンオリンピックの予選を突破し、本大会に出場した。一時、代表の指導から離れたが、1958年に再度監督となった。1959年末のローマオリンピック予選では、韓国代表に敗れて出場を逃し、監督を退いた。その後は長沼健、岡野俊一郎ら若い世代の指導者に代表を託し、日本サッカー協会の理事職を長く務めた。1974年には野津謙会長とともに、協会の財団法人化を実現した。

1980年10月6日、東京都文京区で脳卒中のため死去した。藍綬褒章(1967年)と勲三等瑞宝章(1976年)を受け、2005年に、設立されたばかりの日本サッカー殿堂に入った。

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