HISTORICAL PERSON · 1974年没

ヴァネヴァー・ブッシュ

アメリカの技術者。アナログコンピュータの研究や情報検索システム構想の提唱で知られ、MIT副学長を務め、原子爆弾計画も推進した。

生涯
1974年没
死亡地
アメリカ合衆国(マサチューセッツ州 / ベルモント)
出生地
アメリカ合衆国(エバレット)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(マサチューセッツ州)

伝記

ヴァネヴァー・ブッシュは1890年3月11日、マサチューセッツ州エヴァレットに生まれたアメリカの技術者であり、科学技術の管理者である。父は地元のユニバーサリスト派の牧師リチャード・ペリー・ブッシュ、母はエマ・リンウッドで、3番目の子で唯一の息子だった。名は、父の友人ジョン・ヴァネヴァーにちなむ。一家は1892年にチェルシーへ移り、ブッシュは1909年にチェルシー高校を卒業した。父と同じタフツ・カレッジに進み、2年次に学級副代表、3年次に学級代表を務め、最終学年にはフットボール部の運営もした。修士論文では測量を助ける「プロファイル・トレーサー」を考案して特許を取り、1913年に学士号と修士号を同時に得た。

卒業後はゼネラル・エレクトリック社で試験係として働いたが、工場の火災で停職となり、1914年にタフツへ戻って数学を教えた。クラーク大学から奨学金を得たものの、指導教官が音響学を求めたため、関心のない分野より辞退を選んだ。次にマサチューセッツ工科大学の電気工学課程に進み、1916年4月に博士論文を提出した。指導教官ケネリーは追加の研究を求めたが、ブッシュは拒み、学科長が教官の主張を退けた。この年の8月にフィービー・デイヴィスと結婚し、のちに二人の息子をもうけた。工学博士号は、MITとハーバード大学から共同で授与された。第一次世界大戦中は米国学術研究会議で働き、潜水艦を探知する技術の開発に携わった。

1919年にMITの電気工学科に移り、1923年から1932年まで教授を務めた。1927年ごろから、最大18の独立変数の微分方程式を解けるアナログ計算機、微分解析機を製作した。教え子のクロード・シャノンはデジタル回路の設計に道を開いたとされる。1922年には、のちにレイセオン社となる会社も設立している。1932年にMITの副学長兼工学部長となり、1930年代末にワシントン・カーネギー研究所の総長に就いた。この研究所は権威が高く資金も豊富で、米国内の研究の方向に影響を及ぼせる立場になった。1940年には国防研究委員会の議長となった。第一次世界大戦で科学者と軍の協力がうまく働かなかったのを見ていたからである。同年6月12日に大統領と会い、ルーズベルトは部局の新設についての文書をおよそ10分で許可したという。1941年に同委員会は、ブッシュを局長とする科学研究開発局の一部となり、マンハッタン計画を含む戦時中の科学研究の調整役を担った。

この間、1930年代から「メメックス」の構想を温めていた。マイクロフィルムを使い、本もレコードも収め、通信機能と高速性を備えた機械である。1945年7月に雑誌「アトランティック・マンスリー」へ論文「われわれが考えるように」(原題の直訳)を発表し、項目同士が網の目のように結ばれる百科事典の登場を予言した。同年9月には雑誌「ライフ」が要約版と想像図を載せ、これが後にテッド・ネルソンやダグラス・エンゲルバートに読まれ、ハイパーテキストの着想を促したとされる。1943年にアメリカ電気学会のエジソンメダル、1945年に米国科学アカデミーの公共福祉メダルなどを受け、1963年にはアメリカ国家科学賞を受けた。1974年6月28日に没した。1980年、米国科学財団はヴァネヴァー・ブッシュ賞を設けた。

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