伝記
マーガレット・ミードは、1901年12月16日、アメリカ合衆国ペンシルベニア州のフィラデルフィアで、5人きょうだいの長子として生まれた女性の文化人類学者である。近隣のドイルズタウンで育った。父エドワード・シャーウッド・ミードはペンシルベニア大学ウォートン・スクールの財政学の教授で、母エミリーはイタリア系移民を研究する社会学者だった。妹のキャサリンは生後9か月で亡くなった。名付け親だったミードは心に傷を負い、長年、空想にふけるときは、失われた妹のことを考えたという。一家は頻繁に転居したため、11歳でバッキンガム・フレンズ・スクールに入れられるまで、初期の教育は祖母が行った。
1919年の1年間はデポー大学に学び、その後バーナード・カレッジに転じて、1923年に学士号を取得した。コロンビア大学ではフランツ・ボアズとルース・ベネディクトのもとで学び、1924年に修士号を得た。1925年にサモアでのフィールドワークを始め、1929年に博士号を取得した。同年、2番目の夫のフォーチュンとともにマヌス島を訪れ、島の南岸の村ペリで、熱心な調査を行っている。1926年にはニューヨークのアメリカ自然史博物館に助手の学芸員として加わり、1946年に準学芸員へ昇進、1964年から1969年は民族学の学芸員を務め、1969年に名誉学芸員となった。
最初の主著『サモアの思春期』は1928年に出版された。サモアの生活、教育、社会構造、人格について紹介し、サモアでは結婚に際して処女性よりも勤労倫理が重んじられると暗示した。西洋の人々よりも素朴で誠実で、性的なノイローゼの影響を受けにくいと論じたのである。1935年の『三つの未開社会における性と気質』では、ニューギニアのセピック盆地のチャンブリ湖周辺で女性優位の社会が営まれていると報告した。この書は、ウーマンリブ運動の大きな拠り所となった。同じセピックのアラペシュ族は平和主義だと述べつつ、時折戦争に参加することも書き添え、三つの部族で性の役割が非常に対照的だと報告している。
ミードは、ニュースクール大学とコロンビア大学で教え、1965年にはニューヨーク大学の都市人類学研究室を設立した。1968年にはフォーダム大学に人類学研究室を作り、1968年から1970年まで社会科学研究科の研究科長を務めた。1942年から1945年は全米研究評議会の食習慣委員会の幹事長で、1948年にはアメリカ芸術科学アカデミーのフェローに選ばれた。1970年にユネスコからカリンガ賞を受賞した。1975年にはアメリカ科学振興協会の代表となり、1976年には国際連合の第1回人間居住フォーラムに主要参加者として加わった。目立つケープと杖がトレードマークだった。1978年11月15日に膵癌で亡くなった。
死の5年後の1983年、ニュージーランドの人類学者フリーマンは、サモアの性に関するミードの主な発見に異議を唱える本を出版した。ミードの調査参加者の一人を見つけ出し、その人物が友人と作り話をして、ミードを故意に誤解させたと聞いたと報告したのである。この本は人類学界から少なからぬ反発を受け、アメリカ人類学会は「非科学的」などと批判した。一方で、性道徳は多かれ少なかれ文化を超えたものだと考える科学者たちには、熱狂的に迎えられた。論争はその後も続いた。
同じ年に亡くなった人物
- ヘスス・グラリア (1978年没)
- Giuliana Luigia Evelina Mameli Calvino (1978年没)
- ヒューバート・H・ハンフリー (1978年没)
- カルロス・チャベス (1978年没)
- アルド・モーロ (1978年没)
同じ地域に関係する人物
- E・L・ドクトロウ (2015年没)
- ラングストン・ヒューズ (1967年没)
- カタジナ・ラジヴィウ (1941年没)
- アレクサンドラ・ダニロワ (1997年没)
- マリオ・クオモ (2015年没)