HISTORICAL PERSON · 1978年没

アルド・モーロ

イタリアの政治家でキリスト教民主党の主要メンバー。首相を2度務め、外務大臣として親アラブ政策を実施した。1978年に赤い旅団に誘拐され、55日間の監禁後に殺害された。

生涯
1978年没
死亡地
イタリア共和国(ローマ県 / ローマ)
出生地
イタリア共和国(マーリエ)
出典
世界地図
イタリア共和国(ローマ県)

伝記

アルド・ロメオ・ルイージ・モーロは、1916年9月23日、イタリア南部プーリア地方レッチェ近郊のマーリエに生まれた政治家である。日本の新聞や出版物では通常「モロ」と表記されるが、原語に近い発音は「モーロ」という。父レナートは学校視学官、母フィダ・スティッキは教師であった。4歳のとき家族とともにミラノに移ったが、まもなくプーリアに戻り、ターラントの古典高校を卒業した。1934年に一家はバーリに移り、彼はバーリ大学で法学を学んで1939年に卒業し、法哲学や刑法の教壇に立った。

1935年にカトリック大学生連盟のバーリ支部に入った。1939年、のちの教皇パウロ6世となるジョヴァンニ・バッティスタ・モンティーニの承認を受けて、同連盟の会長に選ばれ、1942年に戦場に送られるまで務めた。後任はジュリオ・アンドレオッティで、のちに二人は同じ政界に身を置くことになる。1943年には、ほかのカトリックの学生と雑誌を創刊し、同年7月にはカトリック勢力による経済政策の指針「カマルドリ綱領」の作成にも加わった。1945年にエレオノーラ・キアヴァレッリと結婚し、4人の子をもうけた。1963年にはローマ大学の教授となっている。

政治への関心は1943年から1945年にかけて育ち、反ファシズムのキリスト教民主党の仲間と協力するようになった。党ではジュゼッペ・ドセッティが率いる左派に加わった。第二次世界大戦後にイタリアが共和制となって初めて行われた1946年の選挙で当選し、憲法制定議会で憲法の起草作業に関わった。1948年に下院議員となり、同年からデ・ガスペリ内閣の外務次官を務めた。1950年代には司法大臣や公共教育大臣にも任命された。1959年3月から1964年1月まで、キリスト教民主党の書記長を務めた。

1963年12月に首相に就任し、1968年6月までその職にあった。外務大臣としては、1969年5月から1972年7月まで、また1973年7月から1974年11月まで在職し、親アラブ政策を実施した。1974年11月から1976年7月までは再び首相を務め、通算では6年以上、戦後のイタリアで最も長く首相を務めた一人となった。在職中には、ソ連などの共産圏への食肉の輸出にからんだ汚職が噂されたこともある。

1978年3月16日、ローマの自宅から車で下院に向かう途中、市内中心部のマリオ・ファーニ通りで、2台の車で乗りつけた極左テロ組織「赤い旅団」に誘拐された。護衛の5人は全員射殺された。ローマ教皇パウロ6世やイタリア政界の上層部と赤い旅団とのあいだで解放に向けた交渉が行われたが、当時モーロと対立関係にあったアンドレオッティ首相の内閣が、逮捕者の釈放要求を拒否した。5月9日、モーロはローマ市内に停められたルノー・4の荷台で遺体となって発見された。10発の弾丸を撃ち込まれていたという。監禁中に書かされた手紙には、アンドレオッティを「悪事を行うために生まれてきた男」と指摘する言葉があった。当局は殺害の実行犯をモレッティだとし、モレッティは終身刑となったが、1998年に仮釈放された。この事件は『首相暗殺』『夜よ、こんにちは』など、映画の題材にもなった。

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