伝記
ラングストン・ヒューズは、1902年2月1日にミズーリ州ジョプリンで生まれたアメリカの詩人・作家で、ハーレム・ルネサンスの指導者とも呼ばれる。詩や小説、戯曲、短編、コラムなど幅広く手がけ、白人作家がそれまで描いてきた、従順あるいは野蛮で知性に欠けるといったアフリカ系アメリカ人の型にはまった姿とは異なり、黒人自身の視点から黒人文化や風俗を示して、普遍的な人間像を描いた。ジャズの調べを取り入れた詩の先駆者の一人でもあり、マーガレット・ボンズとは、シェイクスピアの作品のミュージカルへの翻案でたびたび協力した。
一家の血筋は複雑で、アフリカ系だけでなく、ユダヤ系やネイティブ・アメリカン、ヨーロッパ系の血も混じっていた。母方の祖母メアリー・パターソンはオーバリン・カレッジで学んだ最初期の女性の一人で、再婚相手のチャールズ・ヘンリー・ラングストンとその弟は、奴隷制廃止運動に参加した。母キャロラインは小学校の教師で、父ジェームズ・ナサニエル・ヒューズと結婚して二人の子をもうけ、ラングストンは下の子だった。父は彼が生まれて間もなく家族を捨てて離婚し、人種差別の激しいアメリカを離れてキューバ、のちメキシコに渡ったとされる。母は仕事を求めて何度も転居したので、彼は主にカンザス州ローレンスで母方の祖母メアリーに育てられ、黒人の口承文学の伝統を多く聞かされ、自分の出自に誇りを持つよう教えられた。孤独で不幸な子ども時代で、本を読んで過ごすことが多かった。祖母の死後は、両親の友人であるリード夫妻に約2年引き取られ、のちにイリノイ州リンカーンの母のもとへ移った。母が再婚すると、一家はクリーヴランドに移り、彼はそこのセントラル・ハイスクールに通った。
小学校では学級詩人に選ばれたといい、高校では学校新聞に書き、卒業記念号の編集をし、最初の短編や戯曲、詩を書き始めた。父との関係はよくなかった。1919年に数か月メキシコで父と暮らし、1920年6月に高校を卒業するとコロンビア大学への進学の援助を求めてふたたびメキシコへ行った。父は息子に技師を志してほしく、作家の希望には賛成しなかったが、技師の勉強をするなら学費を出すという条件で折り合った。1920年には詩「黒人は多くの河のことを語る」が、雑誌『クライシス』のジェシー・R・フォーセットに認められ、ハーレム・ルネサンスの若手として頭角を現した。コロンビア大学では比較的よい成績を保ったが、教授や学生の人種的偏見と、興味がハーレムの文化へ移ったことから、1922年に大学を去った。船員として西アフリカやヨーロッパを訪れ、パリに住んだこともある。帰国後は歴史的黒人大学のリンカーン大学を卒業し、ソビエト連邦やハイチへの旅行を除けば、ハーレムないしニュージャージー州を拠点に活動した。
自伝『ぼくは多くの河を知っている』(1940年)、『きみは自由になりたくないか?』(1956年)や、小説『笑いなきにあらず』(1930年)、短編集『白人たちのやりかた』(1934年)、詩集『ハーレムのシェイクスピア』(1942年)などがある。1950年代には赤狩りの標的にされることもあったが、晩年には「黒人民族の桂冠詩人」と称された。1967年5月22日、偽名で入院した病院で、親しい友人にも知らせないまま亡くなった。
同じ年に亡くなった人物
- トト (俳優) (1967年没)
- ニコル・ベルジェ (1967年没)
- ウスマーン・アリー・ハーン (1967年没)
- ヘンリー・ルース (1967年没)
- ジミー・フォックス (1967年没)
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