伝記
継谷昌三は、1940年6月25日に生まれ、1978年6月2日に没した兵庫県神戸市出身のサッカー選手である。ポジションはミッドフィルダーで、日本代表として東京オリンピックの代表にも選ばれた。
実家は材木商を営んでおり、裕福であったとされる。関西学院には1953年に中学部から入り、中学部のサッカー部では、3年次の1955年に主将を務めた。関西学院高等部には1956年から在籍し、サッカー部で高等部の黄金時代の中心的な役割を担った。1959年に関西学院大学へ入学してサッカー部に入り、この年に開かれたAFCユース選手権の日本代表に選出された。大学3年次の1961年8月15日にはインドネシア代表戦で日本代表として初めて出場し、大学4年次には主将を務めたほか、1962年のアジア競技大会の代表にも選ばれて出場を果たした。
1963年に大学を卒業して三菱重工に入社し、1964年の東京オリンピックの日本代表に選ばれたが、出場の機会はなかった。この大会で日本代表は、ベスト8に入っている。日本代表としての最後の出場は、1965年3月27日のマレーシア代表戦である。国際Aマッチの出場は12試合、得点は4であった。三菱重工では3年間で日本サッカーリーグのリーグ戦に40試合出場し、16得点を挙げている。社内では、社員寮などの施設を管理する厚生課に配属された。営業を担当する部署を希望していたが、東京オリンピックの後には会計課に配属された。
1968年1月に自己都合で三菱重工を退職し、地元の神戸に戻って材木会社に入社した。しかし、この会社は2年で倒産した。次に入った鮮魚取扱会社では営業を担当した。この時期に結婚して、公私ともに充実していたが、汚染問題で業績が悪化し、社長が自殺して会社も倒産した。このころから、連日繁華街に出向いて浴びるように酒を飲むようになったという。宝石のセールスなどの会社にも就職したが長続きせず、妻は子を連れて家を出て行った。
1978年6月2日、神戸市垂水区の舞子台病院で肝硬変のため死去した。37歳であった。
同じ年に亡くなった人物
- アルド・モーロ (1978年没)
- John Lyng (1978年没)
- ゴルダ・メイア (1978年没)
- アレクサンダー・ガーシェンクロン (1978年没)
- ジョルジョ・デ・キリコ (1978年没)