HISTORICAL PERSON · 2004年没

鴇田正憲

日本のサッカー選手、経営者。1940年代から1950年代の日本を代表する右ウイングで、1956年のメルボルン五輪では日本代表の主将を務めた。田辺製薬に勤めた。

生涯
2004年没
死亡地
日本(兵庫県)
出生地
日本(神戸市)
出典
世界地図
日本(兵庫県)

伝記

鴇田正憲は、1925年6月24日に生まれ、2004年3月5日に没した兵庫県神戸市出身のサッカー選手、経営者である。読みは「ときた まさのり」で、1940年代から1950年代の日本を代表する右ウイングだった。

神戸市立西灘小学校を経て、兵庫県立第一神戸中学校(現在の兵庫県立神戸高校)に入り、1938年にサッカー部に加わった。在学中のチームは1941年と1944年に兵庫県大会を制し、明治神宮大会で1941年と1942年に連覇し、1942年には第1回の橿原神宮大会も制した。最終学年の1943年には主将を務めた。1944年に関西学院大学の経済学部に入学したが、戦時下のためクラブは同年に活動を停止し、1945年には陸軍に入って終戦まで過ごした。戦後、クラブが再開されると、関西学生リーグで優勝した。

1950年3月に大学を卒業し、4月に田辺製薬(現在の田辺三菱製薬)に入社した。サッカー部では賀川太郎とのコンビで活躍し、全日本実業団選手権で7回の優勝に貢献した。優勝は6連覇を含む7回で、1950年から1955年までと、1957年である。また、杉本茂雄らとともに、現役とOBの混成チームである関学クラブ(全関学)の一員として、全日本選手権(現在の天皇杯)で1950年、1953年、1955年、1959年の4回優勝した。1959年に現役から退いた。

日本代表には、1951年2月11日の全関西との試合で初めて出場した。国際Aマッチとしては、第二次世界大戦後の日本にとって最初の国際試合となった、1951年3月のアジア競技大会で、7日のイラン戦に初めて出場し、翌日の試合では初得点を挙げた。1954年のアジア競技大会にも出場し、1956年のメルボルンオリンピックでは主将を務めた。国際Aマッチには1951年から1959年までに12試合に出て、2得点を記録している。

俊足で、巧みなドリブルと正確なセンタリングで活躍した。関西学院大学の時代には、ドリブルしながら200メートルのトラックを進む彼に、誰も追いつけなかったという逸話が残る。引退後は社業に専念し、1977年5月に札幌支店長となり、1983年7月から取締役兼大阪支店長を務めた。1986年から関連会社の良互薬品の社長となり、1993年に退職した。2004年3月5日、食道がんで亡くなり、神戸市中央区で葬儀が行われた。没後の2006年に、日本サッカー殿堂に選ばれた。

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